【本文】 『歎異抄』 -第七条-
一 念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々
【解説】 法蔵館『歎異抄講義』上巻・三明智彰著
これは人間の関係の中でもそうです。親が子を教えるといいますが、逆に、子によって親が教えられるということがある。これが本当の親になったということでしょう。先生と生徒も同じです。生徒から教えられて初めて本当の先生になるということでしょう。失敗があっても、失敗は成功の母なりというように、失敗はなにも悪いことではありません。失敗してこそ、正しい智慧が育つわけです。失敗することによって、今度はこのようにしようとか、失敗した人の気持ちがよくわかるようになるというように、柔軟な心が育まれてくるわけです。失敗から学ぶこともたくさんあるのだということを、子どものころから教えておくことが必要ではないかと思います。柔軟であるから妨げがない。柔軟心によって状況に処していくことが大事なことなのです。このような教えが「無碍の一道」ということです。
(金剛心と柔軟心 182頁6行目~182頁3行目)
◎本日(8月8日(土))の『歎異抄講義』上巻(金剛心と柔軟心 182頁6行目~182頁3行目)を受けての法話
担当 江戸川・本坊 僧侶 銀田 琢也
成功して自己の優秀さを誇っても、必ずしも「正しい智慧」が育つわけではありません。自己の優秀さで、周りを見下して、その果てに周りから嫌われてしまう。最終的には誰からも相手にされなくなる。そうなると自己の優秀さを誇っても本当の満足にはなりません。この生き方にこそ逆に実は「碍り(さわり)」「妨げ」がついて回るのです。やはり「正しい智慧」ではありません。優秀さの中にも、やはり煩悩の深さ「愚かさ」があるのです。
本当の痛みや失敗の味を知った人は逆に人間関係上の正しい智慧が育てられ、柔軟に人の心に同調するような心が育まれて行くのでしょう。それが育て合いながら、他に不安な心を持っている人と心を分ち合いながら生きていく「碍り(さわり)」「妨げ」のない真っ直ぐな生き方であります。
何故その生き方に転ずるのか。それは本当の痛みを知ったからです。だから失敗は逆に「智慧」が育まれていくのでしょう。
南無阿弥陀仏