正信偈唱和
歎異抄講義(上)拝読及び僧侶法話
歎異抄講義(上)・本文
また「柔軟心」というような信心を説明されるところもあります。阿弥陀仏の法蔵因位のときの願いは四十八願ありますが、その中の三十三願に触光柔軟という願があります。
たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、我が光明を蒙りてその身に触れん者、身心柔軟にして、人天に超過せん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。(真宗聖典二一頁)
阿弥陀仏の光明に遇うものは、身も心も柔軟になるということです。
たとえば、赤ん坊が転んでも、一時は泣きますが大きな怪我をしません。私たち大人が、赤ん坊が転ぶような転び方をしたら、大怪我をします。これはやはり体が硬いから、怪我をするのです。体が柔らかいと、転んでも怪我をしにくいのです。それを、ご信心のこととして私たちはいただいていくのです。阿弥陀仏の光に遇うものは、身も心も柔軟になる。柔軟なものは、怪我をしないから金剛といっても良いのだということです。具体的に、柔らかい心になるとどうなるかといいますと、一旦は怒ることがあっても、怒るということが長くは続かなくなるのです。「お前は駄目なやつだ」といわれても、「はい私は駄目な奴です」と返事をするならば、そこには喧嘩が起こりません。それを、「お前が悪い」といわれて、「私は悪くない」と我を張れば、そこには争いが生じるわけです。
このように「柔軟心」ということが、無分別、無執着、無差別、平等ということになるわけです。柔軟であればどこにも妨げられることがないということになるのです。それが「無碍」ということの内容になってくるわけです。何事にも妨げられない道ということは、何事にも柔軟ということだということです。これは大変難しいことです。
(金剛心と柔軟心 181頁4行目~182頁2行目)