正信偈唱和
歎異抄を読む-歎異抄講義3月17日木曜日
歎異抄・第一条
一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々
本日の歎異抄・第一条 講義文
では、その本願は、どのように説かれているのでしょうか。
この世で価値があるとされているものは、みな限りがあるものです。たとえば、お金にしても、たくさん持っていれば持っていたで心配し、苦労する。お金は、本当に人を幸せにするのか、不幸にするのか、わかりません。かえって不幸にさせるような場合も多いのではないでしょうか。お金がなければ生きていけないということは確かにあります。けれども、お金があるせいで、親子や兄弟のあいだで、お互いが信じられなくなることもあります。何が本当の幸せなのか、よくわからなくなります。やはり、お金よりも、お金を使う人間の魂が大事なのではないでしょうか。宝石にしても、証券にしても、重い金庫に、幾度にも鍵をかけて、しっかりとしまっておかなければ、とても安心して眠れない。国の権力者は、いつクーデターがあるかわからない。不安や心配の中で寝起きして、独裁者というのは本当に自由なのでしょうか。
また、人間であるかぎり、老・病・死ということは絶対に避けられません。いかに王さまであろうとも、避けられません。今までの王さまの中で、王さまだったからという理由で百万年生きた人などいません。長く生きたとしても、百年でしょう。そういう意味で、国王として威張っていても、何にも本当の自由はない。仏さまの教えを聞いて、そしてこの世に人間として生まれた意義を明らかに知らなければなりません。
(法蔵菩薩と世自在王仏の出遇い 16頁7行目~16頁18行目)