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歎異抄・第一条
一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々
本日の歎異抄・第一条 講義文
弥陀の誓願不思議は、どういう生き方に人をさせるのですかというと、悪をもおそれず、また善も求める必要のない人間として生かさせていただくのです。そういう救いをくださるのが、弥陀の誓願不思議です。信心は人間をどうするのですかというと、信心は人間を本当の人間にするということなのです。
(現在に救われる 31頁13行目~31頁15行目)
講義文を受けて
本日の歎異抄・第一条 講義文
講義文にでてくる「悪をもおそれず、善を求める必要がない」というのは、自己を肯定する言葉ではなく≪聞き言葉≫です。自分に聞こえてきた阿弥陀如来からの言葉です。皆、自分の意志とは関係なく生まれてきて、不思議と今こうして存在しているのです。その中で、様々な縁によって悪を造ってしまったり、善を積もうとするのです。悪い人間だから悪いことをする、善い人だから善いことをするのではないのです。善いことをして世間から評価され何不自由なく暮らしていた人が、欲をかいて犯罪を犯してしまい「こんなはずじゃなかった」「そんなつもりじゃなかった」と、今までの生活を一瞬で奪われる。人間の満足とは条件付きの満足なのでしょう。そして、欲は際限なく沸き起こってきます。そんな人間に「もうあなたは足りているのではないですか?どうかそのことに目が覚めて下さい」と呼びかけ続けるのが弥陀の誓願不思議であり、その聞こえてきた声によって≪事実の自分≫に目が覚めるのです。しかし、目が覚めて終わりではなく、夢から覚めた夢のようになってしまうのです。それでも、聞こえてくる声に頷いていくことにより本当の人間にさせてもらえるのでしょう。 田中雄也