正信偈唱和
歎異抄を読む-歎異抄講義4月6日水曜日
歎異抄・第一条
一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々
本日の歎異抄・第一条 講義文
「往生をばとぐるなり」というのは、往生の人生が完成するということです。このいのちが終わるときとは、人生が完成するときです。たとえ短くても、長くても、その人生が完成するときが、臨終のときです。そのように捉えるのが親鸞聖人の教えです。いのち終わるときというのは、仏さまになるときであって、どこへ迷っていくのか気がかりだというようなことではありません。
浄土真宗、親鸞聖人の教えに生きる人びとは、お葬式のときに塩を使いません。日本で一般に、どうして塩が使われるのかというと、清めのためです。浄土真宗では、死ぬということは、穢れではありません。人生の完成ということです。ですから、穢れを清めるための塩は使いません。
(人生の完成 22頁9行目~22頁15行目)