歎異抄講義(上)・本文
「私は源平の戦においてたくさんの人を殺してきました。この私が助かる道があるのでしょうか」というと、法然上人はいつも仰せです。「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」といわれた。「どれほど私が返り血を浴びて人を殺してきたとしても、阿弥陀仏は必ず救ってくださる。ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と繰り返して説かれたそうです。「こういう私が本当に救われるのですか」「はいそうです、私がお念仏するように、あなたもお念仏しなさい。共にただ念仏して弥陀にたすけられまいすべし」と、法然上人は教えてくださった。直実は大泣きに泣いて、お念仏になった。罪悪の報いは地獄行だという戒めだけでは助からないのが人間だということです。その助からない人間こそ助けようというのが阿弥陀仏の本願なのだと、それが真の仏教でなければないのが、この本願の教えなのです。
(悪人を救うと誓われた本願 198頁14行目~199頁6行目)
歎異抄講義(上)・本文
本日の歎異抄・第二条 講義文を受けての法話 銀田 琢也 (江戸川本坊・僧侶)
「直実は大泣きに泣いて、お念仏になった」とありました。
元兵隊で人を殺して戦争から母国へ帰った人も、人を殺してしまった事の罪悪感が後から襲ってきて自殺する方もいます。
その罪悪感から涙さえも溢れ、心を回復された人もいます。「戦争は二度としてはいけない」と涙からものの見方が変わる元兵隊の人もいます。
涙がそれだけ世界観がひっくり返る程のはたらきがあるのでしょう。
「泣く」という字の「泣」の漢字の字体は「洗い流されて、立ち上がる」という自体であります。それまでの迷いの有り様が流されて、そして回復するようなことを促すのが涙であります。
「阿弥陀仏は必ず救って下さる」とは人間として生まれたならではの心を回復せしめんとする、罪悪生死の凡夫への歎きであります。
実は阿弥陀仏は、人間でありながら人間の心を忘れて迷いを繰り返している私たちに、本当の涙を流しながら呼び覚まさんとする歎きであります。だから親鸞聖人は真実のものとして仰いでいかれたのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏