トップページ > 今日の法話 > 8月7日(日)毎朝のお経と法話の会 ※夏休み!毎朝お坊さん修行(真宗宗歌・正信偈)※音声の不備により文章での法話更新とさせて頂きます。ご了承の程宜しくお願い致します。
歎異抄
歎異抄・第八条
一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々
九
本日の歎異抄・第八条 講義文
つまり神や仏に対して、取り引きをしているということです。取り引きの気持ちで、神や仏に祈る。これでは、神や仏を脅すことになってしまいます。しかしながら、それでもそれが実現されるかどうかはわかりません。悪いことがあったら、もうやめる。よいことがあったら、また続けて祈る打算的な冷たい根性はやめて、人生を考えましょうというのが、親鸞聖人の呼びかけだと思います。
(取り引きの気持ちに気づく 213頁11行目~213頁14行目)
本日の歎異抄・第八条 講義文を受けての法話 銀田 琢也 (江戸川本坊・僧侶)
念仏とは、何かを自発的に信じて幸せを賜る。そのような一般宗教とは違います。
もし何かを自発的に信じて幸せが得るというのなら、信じる対象は神でも仏でなくともいいのです。それなら悪魔でもいいということになります。
だから取り引き感覚になり冷たい根性が育ってきてしまいます。
これは現代の閉鎖的社会の人間模様でもありましょう。自分にとって思い通りになる人には感激したり、自分にとって思い通りにならない人には冷たい。たとえ自分の思い通りになる人には感激しても、なんらかのことでその人に対する見方が変わり感激も薄れたりすることあるでしょう。結局自分の都合でその人を見ていたに過ぎない。
そのような根性に陥り、自らもその根性で自分の人生を脅していることにもなる。最後の頼みの自分でさえ、自らを取り引きしているかのように脅してしまう。そして自分をどう受け止めてよいかわからないままに自らに冷たくなりさえします。
他人に対して感激しようとも冷たくしようとも結局は個人的感情だけが自らにつきまとうかのように迷い続ける。
この迷いの深さのままにあって聞いていかねばならない真実の歎きに親鸞聖人は救い仰いで行かれたのです。
この迷いの深さから逃れたいために、なんらかの一時的な救いでしかないことで抑え込もうとしても、どこまでも迷いは深いのです。そしてたとえ一時的に何か成し遂げたとしても、死ぬということがその成し遂げてきたことを奪っていくのです。
救われ難き自己の問題を抜きにして、神や仏を難として、神や仏のせいにしていても、わがままになるばかりです。迷いの深い自分から違う自分になって救われていくということではないのです。
その難という問題を抱えていたのは自分であった。その問題の頷きから聞いていかねばならない念仏の教えがあることを親鸞聖人は仰いで行かれたのです。
どこまでも迷いから逃れられないこと悲しみの眼差しで見通して歎いていたのが阿弥陀仏だったことに頷いていかれたということです。その仏の悲しみから我々に聞こえさしめんとする願いとなった嘆きを親鸞聖人は、自己の苦悩が包まれるかのような真実の歎きとして仰いで行かれたのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。