トップページ > 今日の法話 > 8月8日(月)毎朝のお経と法話の会 ※夏休み!毎朝お坊さん修行(真宗宗歌・正信偈)※音声の不備により文章での法話更新とさせて頂きます。ご了承の程宜しくお願い致します。
歎異抄
歎異抄・第八条
一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々
九
本日の歎異抄・第八条 講義文
ある雑誌で、「癌になって初めて人生をまじめに考えたいと思うようになりました」とありました。癌になって初めてというのは、切実なことですけれども、癌にどんどん進めていったら、まじめに考えることもできなくなります。だから命があり、体があるというあいだに、自分の人生をまじめに考えるということが、どうしても必要だと思うのです。癌を宣告されたときには、ショックで身動きもできないようになるでしょう。けれども、普段からいつも、死ぬということの準備、心づもりというのは必要でしょう。
(取り引きの気持ちに気づく 213頁15行目~214頁1行目)
本日の歎異抄・第八条 講義文を受けての法話 銀田 琢也 (江戸川本坊・僧侶)
普段からいつも、死ぬということの準備、心づもりというのは必要でしょう
普段から死を通して自らの生を問うことは心が活していく意味を頂く。
私達は普段一番慣れていることは何か。実は生きていることです。慣れているままに生きているだけなのであれば、生は活していかない。
当たり前の感覚に流されていくからです。
家族も職場も毎日、毎日同じ顔が出てきていく日々なのですが、その毎日に慣れてしまうと、あの方がいようと、この方がいようともう感激なんて薄れていくのです。気がついてみれば同じ顔が出てくると、もう文句の言い合いからコミュニケーションが始まってしまいます。
慣れてしまうと、もう感激なんて薄れて、家族、職場でも、あの方がいようとも、この方がいようともうっとおしいという思いに流されてしまいます。
「同じような日々を過ごしてるだけだ」というような思いがどこかにあるのですが、しかし、同じ日なんてあるでしょうか。実は同じ日なんていえる根拠なんてどこにないのです。
もう今日という日にちはもう二度と来ない。人間の日々の慣れてしまっている感覚(邪見驕慢)が同じ日々を過ごしているだけと感覚させてるだけなのです。その気づきがなければ家族が生きている尊さも忘れ、それ以上に自分が生きている尊さも忘れてしまいます。普段からいつも、死ぬということの準備、心づもりというのは必要なのでしょう
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。