正信偈唱和
歎異抄
歎異抄・第八条
一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々
本日の歎異抄・第八条 講義文
自我の思いの他のはたらきということを、一つ例をあげていうと、大谷大学の廣瀬杲先生からお話お聞きしました。先生が、この他力ということについて質問を受けたことがあったのだそうです。「他力ということがわかりません」と質問されたときに、「他力がわかりませんか。自分の胸に手を当ててみてください」とお答えになったというのです。
「胸に手を当ててみてください。これが他力ですよ。わかりましたか?」
「胸に手を当ててみてもわかりません」
「胸に手を当ててみてもわかりません」
「何か気がついたことはありますか?」
と、また聞いたら、何も答えられなかったのですが、少しして小さな声で、
「心臓がうっています」
と、いったそうです。それで広瀬先生が、「そうです。じゃあ、わかりましたか?」
と、いわれましたら、やっぱり「わかりません」というのです。そこで、
「その心臓を、いつ動かしましたか?」
と広瀬先生が尋ねられると、また「わかりました」という。母親の腹の中にいるときから動き始めるのですね。
「心臓を一回止めてみてくださいといわれても、自分の体の中にあるのだけれども、止められない。いつ動かしたのかわからない。自分の思いどおりにならない。しかし、少しの時も休まず命のもとになって動いているのです。思いの他のはたらきが他力なのです。そういうことは普段の私たちは考えません。普段の生活の中で自分の心臓が動いていると認知する人は、心臓の具合が悪い人でしょう。そういう人は、すぐに病院に行ったほうがよいでしょう」
と、このようなお話しをされたということを、お聞きしました。
(ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに 222頁3行目~223頁4行目)