歎異抄
歎異抄・第六条
一 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の 候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず 候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はば こそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し 候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つ くべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのある をも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざる ものなりなんどといふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信 心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすも あるべからざることなり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩を もしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。
本日の歎異抄・第六条 講義文 ここに「ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろう」とありますが、『歎異抄』の第五条には、「わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ」(真宗聖典六二八頁)と、ありました。念仏が私が作る善であれば、念仏を回向して父母を助けることもできましょう。しかし、そうではありません。お念仏は、阿弥陀仏の催しによるお念仏なのです。それと同じ事柄が示されているのです。私の思いではない。阿弥陀仏が直にはたらいて、念仏させるのだ。私が念仏するのも、その人がお念仏するのも、賢くて念仏するのでもない。阿弥陀仏がはたらいてお念仏する。あの人がお念仏するのも、私が教えたのではなくて、阿弥陀仏がはたらいてお念仏もうすのです。
(親鸞は弟子一人ももたず 155頁後7行目~155頁後1行目)