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8月31日

8月31日(月) お経と法話の会

曽我先生実語抄 ※本日・朝の法話 髙木 友裕 僧侶
【本文】
信は自分自身を明らかにする。信心は自覚である。佛より自分は大切である。自分自身が尊い。尊いこととえらいこととは違う。自分自身というものは偉かろうが偉くなかろうが最も尊いものである。自分自身というものは解らぬものだが、その自分自身を信が明らかにする。それで清沢満之先生は信仰といわず信念という。佛教の信は信仰ではない、信念である。単なる信仰であるなら、機の深信はいらない。むしろ信は如来のおたすけによって、自分自身を知るということである。自分自身を知り、自分自身の安住の場所を明らかに教えて下さる。それが機の深信である。
自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなき身―
と決定して深く信ずるとは知ることである。信ずるということは崇めるということだと定義しやすいが、親鸞聖人は信ずることは知ることだ、自を知り、他を知る。他とは如来である。ただ如来は知るだけでなしに自己を知らなければならぬ。如来を崇めるということは如来を知るということである。だから深く信じ深く知る。決定的に深く知ることが信ずることである。

( 73頁11行目~74頁11行目)

【本文】※上記と【證大寺・職員感話】を受けての法話

髙木 友裕 僧侶(江戸川・本坊)

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。お早うございます。本日も宜しくお願い致します。

仏門に入られるというの身内の「死」。急な「死」ということでお話(職員感話)にありましたけれども佛教において「死」というのは急なんですね。急でない「死」はない。私の母も危篤の状態が一週間程続いて最後は還浄(かんじょう)・浄土に還っていかれたわけですけれども、やはり亡くなる時というのは急でした。急だなという印象でした。急におとずれるものでございます。又お釈迦様が皆様もご存知かと思いますけれども「四門出遊」といって、お釈迦様というのは国の王子様ですからね、国の人達はゴータマ・シッダルダ(お釈迦様が王子(因位)時の名前)にすべての醜いもの、つらいものを見せまいと囲んでたのですね。お釈迦様はきれいなものしか知らなかった。都合のいいものしか知らなかった。とある時にお付きの人と「東」の門から出たら、ゆっくり歩く人に出会うんですね。お付きの人に家来の人に「あれは何だ」と聞いたら、あれは「あれは老人です」と答えた。「私もいずれあのようになるのか」「人は生きている限りは必ず年を取っていきます」「ああ、そうなのか」と。又とある別の日は「南」の門から出るとにかかっている人に出会う。これも同じようなやり取りがあって別の門(「西」の門)から出ると葬儀の列があって「死」というものを始めて目の当たりにします。この三つのこと「老」「病」「死」を始めて体感して「いずれ自分もそうなるんだ」と初めて認識するんですね。ここでいずれ自分もそうなっえしまうことが怖くなって、色々思いが過ってきて最後に「北」の門から出た時に「沙門」という、いわゆる出家僧に出会うんですね。見た目もみずぼらしいし、髭も髪も伸ばし放題で白髪も交じっていたかも知れません。歳を取っているけれども、ご飯も食べていない、だけど目が輝いている。出家をすれば「老」「病」「死」を超えていけるんだ。こういった思い出出家をされる。「四門出遊」という話ですね。四つの門から出る。「遊行」の「遊ぶ」という字ですね。「四門出遊」といいます。何が言いたいかというと、色んなことを、例えば「死」に関して言えば身内の死をしっかりと目の当たりにすることによって「自分もそうなるんだ」ということを知るんですね。こういったことを知っていくというのは、これは自分の力で知ることはできません。色んな力によって知ることが出来る訳です。それが今日「曽我先生実語抄」に書いていた「信」というところでもありますよね。「信知」ということであります。己を知っていく。これが信じていくということなんですけど、これは自分の思いを超えていると思います。色々ありますけれども手を合わせて頂きます、お内陣は「鏡」だといいます。そして教えも「鏡」であると。そしてそこに「光」がないと鏡は見えませんからね。この「光」がはたらき、「智慧」というふうにあらわしていますよね。阿弥陀様の後ろから出てる「光」。これは智慧の光・はたらきをあらわしています。こういった光・智慧のはたらき、教えを通して自分自身を知っていく。これがおあさじの大事な意味です。
先ほどのお話(※職員感話)にも「本」のことがありましたが、そして「本」というのは形ですね。すべて形あるものは、すべて願いが果としてあらわれた。「名前」もそうですね。ご両親の願い「果」としてあらわれているのが「名前」ですね。「本」もそうですね。書く方の願い。書く方が何故願いを持ったか。のもう一つの願いがあるわけですね。こういった願いが「本」という形になっているわけです。ですので「本」を残したいというのはただ単に物理的に「確かに私は生きてましたよ」ということでなくて、その方が生きている本当の願いですね。その願いを「本」としてあらわしたいと。そういったあらわれ、願いが「本」として生まれていくんだと思います。色んな本を読む機会があると思いますけれども、「本」というのは願いが形になっていると、すべてのものは願い「因」になっている。そして願い「縁」となっている。こういったことをお感じになられますとおもむきが変わってくるのかなと思います。
ありがとうございました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

 

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