仏教人生大学
お電話でのお問い合わせ(葬儀24時間電話相談):03-5879-4501
銀座キャンパス
資料請求・お問い合わせ
基本講座
仏教入門講座
聖典講座
教養講座
出張講座
外に出て学ぼう

Home トップページ  >  今日の法話  >  9月9日(水)毎朝のお経と法話の会

9月9日(水)毎朝のお経と法話の会

曽我先生実語抄
【本文】
如来を私どもが信じ、佛さまが私どもを信じておる。われわれは如来に信ぜられておるのである。如来が大悲本願をおこしたまえるのは、如来が我ら衆生を信じて下さるのである。
我ら衆生は何もどこにも信ぜられる資格はない。けれども如来は信ぜられる資格の何もない私どもを信じて下さる。その如来の御心、体が、南無阿弥陀仏である。だからして、如来が私どもを信じて下さるのということは、その心がすなわち我らに廻向されるならば、我らが如来を信じる。如来を信ずることによって、そのことがまたみずからを信ずる自信になるわけである。ただわれわれが如来を信ずるだけではない。如来を信ずるということは、すなわちわれらが自身を信じるところの信である。それが機の深信である。自覚の信である。
(真の自信力 77頁9行目~78頁4行目)

 

【法話】井上 城治 住職(江戸川・本坊)

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。お早うございます。本日も宜しくお願い致します。
お寺は365日お経が上がってます。必ず毎日8時半から必ずお経が上がってます。門徒の皆様は参加できる権利があるということなんですよ。毎年毎年納めてもらってるでしょ。これは本堂を維持するためなんですよね。本堂は何かと言うと佛様のお話を聞く場所です。そのために開かれているのが本堂なんですね。葬式も行うのですが、「佛式のお葬式をせよ」と言う言葉が浮かびます。今いっぱい葬式ありますでしょ。セレモニー一杯あるじゃないですかね。意義がないですよね。他のセレモニーだと亡くなった人を死骸として葬るだけなんです。非常に乱暴な言葉なんですがそうなんです。亡くなった人を佛様として僕らが拝むのであれば、どう拝むのか。僕には考えはありません。ずっと伝わってきたことを親先祖がどうして来たかということを受けるのが大事なんです。それは今伝わってないですからね。「葬儀要らない」とか「一日だけでいい」とか「セレモニーでいい」となっているのは僕ら怠慢なんで、申し訳ないことなんですが、本当は親先祖の意義があったはずなんです。(中略)今日は「自信力」とうことを読んだのですが本当の「自信」とは佛教用語は一杯あるんです。それが半分以上間違って伝わっているというのが殆どなんです。日本語は本当仏教用語が多いのです。挨拶から全部そうなんです。「自信」とは今でも言うじゃないですか。「自信持って頑張んなさいよ」「努力してやってるんだから自信持ちなさい」とありますが元々「自信」は佛教用語です。親鸞聖人よく使った言葉なんですね。今の言葉が反分間違い「頑張って分だけ自信持ちなさい」と言うのは他社との比較の「自信」でしょ。「五時間寝ないで頑張った」ということは四時間しか寝てない人の前ではね、負けちゃう気がするんですよ。比較だからなんです。それは根っこが比較ですから、落ち込んだり、威張ったりする。コンプレックスと言うのは比較のなかから生まれます。「自信」とは何か。「僕らはなにも資格はない」と言うんです。何の資格もないんだけどその自分たちが安心して生きていける。何かと言うと、僕が自分で考えている「自信」と言う中に「都合の悪い自分消したい」と思ったり、都合のいい自分を見せようと思ったり、たとえば自分のことを「自信がある」とか「ない」とか言ったりしてるんだけど、たとえば自分のことを信じるのが「自信」だと、そうしますと自分のことを信じるというのは「調子がいい」「悪い」両方ちゃんと知るということです。なおかつそれでも自分は自分なんだ。威張る必要もなく卑下する必要もなく胸張っているのが「自信」なんですね。と言うと自分のこと信じてるか。となると信じてないでしょ。自分を励ましたり利用したりはするけど信じてないですね。誰が信じているかというと自分よりも自分を信じている人がいるというんですね。佛様と言うと遠いと思うのでたとえば大事な亡き方。何かと言うと良くても悪くても信じる。信じるとは何かと言うと知るということですから、悪い時には、周りだったら「まあまあまあまあ」親友だったら「おかしいんじゃないか」と言う。それは自分のこと信じてるからなんです。関係ないんですね評価なんてね。本当に信じてるから悪い時には「悪い」と言ってくれるし、いい時「良かった」と言ってくれるし、結果は本当に悪くなっても「友達やめない」「孫捨てない」「子供じゃないと言わない」うちの子だと思ってるから言うんですよね。そういったことを「自信」だと繰り返し繰り返し学んでます。そういう人が目の前にいると威張る必要のないですね、落ち込む必要もないし、誰から評価されなくてもマスコミから世界中の人から評価悪くされても「他人」ですからね。僕のことを誰よりも信じてる人、知ってくれる人が応援してくれてる。僕はその辺が「僕一人だけだな」と思うのでは弱いので、応援されてるんだなと思うと「自信」になるんですね。
自覚を開くのが「自信」だと言うんですけど、佛教では亡くなった人を「死者」と言っておしまいなんです。そして「人を二度死なせてはいけない」と佛教では教わります。「二度目」は忘れる時なんです。そうするとお葬式で向き合ってみれば「亡くなってみても会えない」じゃなくて「十分伝えてもらったな」頂いた分しっかり思い出してこれからも「ご指導宜しくお願いします」と向き合っていけばいいんだな。忘れるんじゃなくて亡くなったんじゃなくて忘れてるだけなんだな。というのが佛教なんですね。佛教は「目覚めよ」というのが「ブッダ」なんです。直訳なんですね。そうすると、「どこかいいところ行ってください、幸せになって下さい」とか仏教は言わないんです。佛様は僕らを心配して、僕らは佛様を心配できない。僕ら大変ですよね、色んな煩悩もあって盛んです。家族ともワーワーキャーキャーやってます。それでもこの時間になると亡くなった人に合掌して「何やってるんだろう」とか「言い過ぎたな」とか「感謝足りないな」そうすると教えてもらったな。気づくのは僕らなんです。「どこかいいところ行ってください、幸せになって下さい」だったら、どこいけばいいんですかね。幸せになるとは何ですかね。僕お金欲しいし、モテたいし、名誉欲もあるし、色んな人に言うこと聞かしたいですけど、それはそれで幸せかと言うと解らない。何があってもなくても「ありがとう」と頭下げられるのがいいな。
今日よんだ和讃でも「帰命せよ」「帰命せよ」「帰命せよ」とは何か。と言うと自分に帰る。頭下げてる自分は何者か。安心して知りなさい。そうすると胸張って歩けるんです。隠さなくていいし。「馬鹿」と言われると「ありがとう」と。中々そうならないので故人様のこれからの教えがあると思います。亡くなっておしまいじゃなくて、亡くなった人が法になる。教えになる。私にとって佛様になるんだというのが大乗仏教の大事な見方なんです。

ありがとうございました。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

 

 

仏教人生大学
資料請求・お問い合わせ
お電話でのお問い合わせ(葬儀24時間電話相談):03-5879-4501
Copyright © 仏教人生大学 All Rights Reserved.

ページトップへ