歎異抄
歎異抄・第六条
一 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の 候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず 候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はば こそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し 候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つ くべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのある をも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざる ものなりなんどといふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信 心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすも あるべからざることなり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩を もしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。
本日の歎異抄・第六条 講義文
現代用語の「自然(しぜん)」と、仏教用語の「自然(じねん)」は、違います。現代用語の自然の場合でも自分も自然の中にいるのだということを忘れてはならないと思います。ですから、川を汚すということは、自分を汚すということです。山を切り崩すということは、自らを切り崩すことになるわけです。
キリスト教やイスラム教の考え方では、特徴的なのは、天地創造の神さまが自分の姿に似せて人を創ったと、そして自然のものはすべて人に奉仕させるために創ってくださったという考え方をします。そうなると、自然は機械、装置であるということになります。神さまに似せて創られた人が暮らしていくために、何でも使っていいと、神さまがいわれたのだから、この自然も好きなように使っていいのだという考え方が基盤になるわけです。
その基盤が、仏教の場合は違うわけです。人は選ばれて創られたのではない、人も物も動物も、みな同じである。縁によってできたものであり、自然のはたらきの中にいるのだという考え方です。自然愛護とか動物愛護ということも、少しそれは違うわけです。動物を可愛がりましょうといっても、その可愛がる基盤が、仏教の場合と、キリスト教圏とでは、ちょっと違います。
(自然の中にいる人間 168頁後4行目~169頁7行目)