夏休みになると朝早くからママに連れられて、近所の幼稚園児や小学生たちがお寺に集まってくる。毎日のお朝事を一緒に勤めるためだ。お坊さんや門徒さんと合わせて、子供たちの正信偈を読む声が本堂に響きわたる。毎年おなじみの風景である。
ある日の勤行の後、しばらく子供たちと遊んでいると、小学五年生の女の子が
「あの子、知ってる」と本堂に残っていた一人の子を指さした。
どうやら同じ小学校の生徒で、廊下で見かけたことがあるらしい。
お寺に集う仲間は、みんな寺友(てらとも)だ。私はすかさず「友だちになろうって、声をかけておいでよ」とうながしてみた。すると女の子はこう言った。
「一緒にそばにいればいいよ。自然に友だちになれるから」
私は言葉を失った。なるほど、いちいち友だちになろうなんて声をかける必要はないのか。私たち大人の社会ではどうも堅苦しく考えがちである。
今日からお付き合いをしましょうと決めたかと思えば、明日から別れましょうとまた決めたがる。「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるる」だけのことなのに。何事にも契約を交わさなければものごとが進まないようになっているようだ。
インドのナイランジャナー河のほとり、菩提樹の下でさとりを得たお釈迦さまは、その内容をかつての五人の修行仲間に語り聞かせた。すると、その教えはまるで戦車の車輪があらゆるものを圧倒して進むがごとく、法の輪となって自然に世界に転回されていった。仏教の歴史が初めて一人一人の人間に動き始めた瞬間である。これを「初転法輪(しょてんぼうりん)」という。
この時、同時に形成されたのが、仏と法のもとに自らの生き方を訪ねようとした人間の集団である。これを「僧伽(サンガ)」という。
「僧伽」は、仏の願いによってかたちづくられ、万人に与えられた「共通の広場」だ。そこに利害関係や損得勘定は通用しない。
一緒にそばにいる。それだけで「自然のことわりにあいかな」って、お互いに敬いあえる親友が誕生する場。それが「僧伽」であり「お寺」の役割であろう。
仏教の大切な願いを小学生の女の子に教えていただいた。まことに仏恩の深きことを念じるのみである。
證大寺江戸川本坊 大空