今号はお盆にちなんで、『盂蘭盆経』に親の願いに学んでいきます。『盂蘭盆経』に拠れば、目連さまは出家し修行を重ねた結果六つの神通力を得ます。亡き母の「乳哺の恩」に恩返しをしたいと探したところ、母は餓鬼道にて骨が浮き出るほどやせ細っていました。目連さまは母を助けようと鉢に飯を盛っておくりますが、飯は燃えて炭になり食べることが出来ません。目連さまは自分の力では母を助けることが出来ないことを知り、大いに悲しみ泣くに泣いて、釈尊に母を救う方法を初めて尋ねました。
釈尊は「汝の母、罪根深結すれば、汝一人の力のいかんともする所に非ず。汝、孝順の声もて天地を動かすといえども、天神・地神・邪魔・外道道士、四天王神もまた、いかんともすることあたわず。まさに十万衆僧の威神の力をもちいてすなわち解脱することを得べし」と教えました。目連さまの親孝行の真心は、天神地神が感動して大地を動かすほどに深いものです。しかし親孝行の思いで母は救われませんでした。親鸞は、
『菩薩戒経』に言わく、出家の人の法は、国王に向かいて礼拝せず、父母に向かいて礼拝せず、六親に務えず、鬼神を礼せず。『教行信証』
と記しています。父母を礼拝するとは、たとえば父母の菩提を弔おうという私の「思い」です。親鸞は礼拝する対象は親ではなく、仏であることを明らかにしています。
私達は親を拝みますが、親はそれを望んでいるでしょうか。私は10年前に死んだ父から、生涯聞法と教えられました。父を拝むのではなく、父の死を縁として真実の依り所、仏の教えを聞けと教えられたような気がします。しかしそれでも私は自分の考えを中心にして、親孝行や親の供養が出来る、出来ないと考えています。親鸞は、
仏智を疑惑するゆえに
胎生のものは智慧もなし
胎宮にかならず生まるるを
牢獄にいると喩えたり
と述べています。胎生とは、胎児のように衣食住の心配はなくても、自我の思いに閉じこもり外の世界を知らない世界に喩えられ、胎宮とは七宝の牢獄とも言い、欲望に縛られ本当の満足を得られない世界を示しています。いづれも満足を知らない自我増大の餓鬼の世界です。経典には、「年々の七月十五日、常に孝慈をもって所生の父母を憶い、為に盂蘭盆を作し、仏および僧に施し、もって父母の長養、慈愛の恩に報ぜよ」と説かれています。7月15日は、仏歓喜日なる僧自恣(懺悔)の日です。しかし懺悔をしているという自分の思いが中心であれば、懺悔を転じて立ち上がる力にはなりません。親鸞は
仏智うたがう罪深し
この心思い知るならば
悔ゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし
と述べています。仏智の不思議とは、仏の智慧、願いは私の思い(思議)よりも大きいことを示しています。自分の懺悔に止まらず、親の願い、仏の願いを確かめていくことが大切だと思います。
『父母恩重経』には、「為造悪業の恩」として、親は子供の養育の為には悪いと分かっていることでも為してくれると教えています。『孟蘭盆経』は、「目連の悲啼泣声、釈然として除滅す。この時、目連の母、即ちこの日において、一劫の餓鬼の苦をのがるることを得たり」と記しています。目連さまの悲しみが除かれたとき、母の苦しみは消えました。子供が救われて初めて、親も救われるのではないでしょうか。父母を憶うとは、父母の願いを確かめ続けていくことだと思います。私達の名前は、親の願いが形になったものです。あなたはあなたの名前の意味を知っていますか?今年のお盆は、名前に込められた願いを確認する機会にしてみませんか。