親鸞聖人は『正像末和讃』で自力諸善のひとはみな
仏智の不思議をうたがえば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにける
と述べている。仏智の不思議とは、仏様だけが知っている不思議な智恵ではない。私達が仏様の存在を忘れ、遠ざけても、「私はあなたを見捨てない」という、私たちの思議を超えた大悲を必ずあなたに届けようという仏様の願いである。
私は思い通りにならない現実を忘れたい、自分をごまかしたいとしばしば思う。その時私は仏教から離れたいと考える。何故なら仏教は、誤魔化したい自分に対して、本来の私自身に「目覚めよ」という呼び掛けをするからである。しかしどれ程、自分を誤魔化そうとしても誤魔化しきれない私が心の奥にいる。そして自分を誤魔化しているという空しさだけが強くなる。何故、自分を誤魔化すことが辛いのだろうか。
『大無量寿経』には、お釈迦さまの次のような比喩が説かされている。ある皇太子が罪を犯した。罰として牢獄に監禁される代わりに、あらゆる欲望の叶う宮殿に金の鎖で監禁されるとしよう。皇太子はその世界に満足して留まりたいと願うだろうか、と。それに対して弥勒菩薩は、いいえ、皇太子は全力で金の鎖を引きちぎり、その世界を離れたいと願うと思います、と答えた。お釈迦さまは、
このもろもろの衆生もかくの如し ・・・中略・・・・
余の楽しみありといえども、猶しかの処をねがわず
と説き、人は欲ではなく、本当の願いを求めて生きていると示している。たとえ欲望が叶えられても、真の私に目を覚まさせる仏と法とそこに集う仲間達に出会うことが無ければ空しく、本当の喜びは得られないと教えている。親鸞聖人は、
仏智うたがうつみふかし
この心おもいしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし
と述べ、仏智を疑うことで空しく迷っていることを思い知るならば、悔いる心を糧にして仏の大悲の中に真の自分を求めよと励ましている。私達は自分を認めて欲しいと願うが、その自分とは何かが明らかにになっていない。
『大無量寿経』には「明信仏智」という言葉があり、曽我量深は
もし真信を明信とすれば、迷信は闇信にある。真信の如来光明中に自我を
見るに反して、迷信は如来光明の他に、彼に照らされざる闇黒なる実我を
執するものである。
と述べ、真信とは如来に照らされて明らかに自身を知らせる仏智を頂くことであり、迷信とは仏智を疑って自分の思いに囚われている有様だと示している。
三明先生から、我々に定相はないが、「いつもああだ」、「かならずこうだ」と他者や自分を決めつけて暮らしていると教えて頂いた。いつも駄目な自分もいないのであり、仏の大悲はそのような思いに執われている私に対して、「私はあなたを見捨てない」という大悲をもって、私を信じ、いつか真の願いに気づくことを待っていて下さる。