人生における苦しみは 全て如来の激励(はげまし)である 曾我量深
苦しみ(苦悩)とは思い通りになりないことである、とよく教えて頂きます。今、右足の親指の付け根に激痛を抱えながら書いています。勘のいい諸先輩であれば、ああ…となることでしょう。聞いていた通り、それは突然何の予兆もなくやってきたのです。経験したことのない苦しみにさいなまされています。ビールを普段飲まない私には無縁の事と高をくくっていたのですが……。
さて今月の言葉は今から十九年前、證大寺に入職してすぐに出遇った言葉です。お寺の掲示板に法語を掲載するため、初めて大判用紙に墨書きをまかされた言葉です。当時私は本堂裏の書院に三カ月ほど寝泊まりして勤めておりました(住込み)。この言葉の書き損じを部屋の欄間に貼って過ごしたこともあり、この言葉は自分の中に強く印象に残っています。それから約二十年の時を経た今、再びこの言葉と出遇ったとき、この言葉の受け止め方が当時とは明らかに違う意味で聞こえてきます。当時の私は、単純に与えられた苦悩を乗り越えるために、仏さまが応援してくれているのだ、なんて心強いことか…くらいの意味合いでとらえていました。今回ひとつ自分の区切りとして、改めてこの言葉と向き合うこととしたいと思います。
僧侶としての道を歩み始めて約二十年、もとをたどれば、寺に生を受けたというご縁から始まった道ではありまが付き、有難く稀な縁であったと感じ入ります。この二十年いろんなことがありました。十年一昔といいますが、その倍の年月を過ごしているわけで、青年からりっぱな中年になるできごとがあるわけです。結婚し、娘が生まれ、そして別居、離婚。一僧侶として勤め始め、配置転換を経て管理職となり、実家の寺では副住職となりました。身体のほうも、髪は薄くなり、皺は深くなり、腹はなかなか引っ込まなくなりました…。私事だけではありません。周りも同様です。今現在も良いことも悪いことも日々いろんなことが起こっています。最近よく考えるのは、はたしてこの良いこと、悪いこととはどこで決まるのだろうということです。
以前ある先輩僧侶が、「人間の心は気まぐれにうつろいかわるもの、コロコロころがるようによく変わるから心(こころ)と言うんだ。」と話しておられました。昨日まで良いと思っていたことが、今日は苦しみになる。あの時は不幸だと思った出来事が、何年か経って振り返れば、自分にとって大切な転機であったと思えることもあります。案外、良い悪いはきれいに分けられないのかもしれません。良いことも悪いことも実は表裏一体、その時々の自己による受け止めなのではないかと思うのです。
だとすれば、その移ろいゆく心をもって「思い通り」を求め続ける限り、本当の意味で思い通りになることなど一つもないのではないでしょうか。なぜなら自己の「思い通り」がコロコロ変わるからです。そのように思うと、苦しみの根源は時々で思いを握りしめている自己自身であるということに気が付きます。
曽我先生は「我は我なり、如来は我なり、されど我は如来にあらず、如来我となりて、我を救いたもう」と教えてくださいました。生きていく限りこれからも苦しみはなくならないでしょう。そのたびに思い悩むのだと思います。しかし苦しみをなくすことだけが仏教なのではない。苦しみの中にこそ、如来(真実)によって私が知らされてくる。如来を通して我(自己)と出遇うことこそ、曽我先生の言う激励なのだと思うのです。
十九年前、書き損じたこの言葉を欄間に貼って眺めていた青年の私には、まだ分からなかったことがあります。そして今も、分かったとは到底言えません。ただ、この言葉をもう一度掲げることになった今、二十年という時間そのものが、私にこの言葉を聴き直させてくれているように思います。
森林公園支坊 溝邊 貴彦

