この言葉は親鸞聖人が九歳で得度を受ける際に詠ったと伝えられています。
聖人が僧侶として生きることを願って比叡山の青蓮院を訪れた際、夜遅かった為に慈円僧正から「夜も遅く疲れているだろうから得度式は明日にしてはどうか」と促されました。しかし、親鸞聖人は命について「明日がある」と思い込むことを、いつなんどき散ってしまうかもわからない桜に譬え、夜に嵐が吹けばどんなに満開の桜でも散ってしまうと歌にしました。だから「明日」ではなく、命ある「今」仏教のお話を聞きたいと、その夜に得度を受けさせて頂いたのです。
親鸞聖人が幼少の時、京都では戦乱や天災における飢饉、火災、地震が相次ぎ、人の死を目のあたりにしていました。そのような中で、聖人は美しい桜の姿を見て、命の無常を観じられたのではないでしょうか。
私達は何故、桜が満開に咲いているのを見ると感慨深くなるのでしょうか。それは私達の命の在り様を桜から教えられるからだと思います。花は咲いても、いずれ散ります。私達も命一杯生きているけれど、いつなんどき死が訪れるかわかりません。私は、桜の花が私達人間の命の姿を見せてくれているように思います。「桜が咲いている」という感動がおこる時、自らの命の尊さ、その美しさに気付かされます。
親鸞聖人は桜を愛でると同時に桜から自らの姿を見つめられ、願われていることに感動したのではないかと思います。
私は、聖人の「明日ありと思う心のあだ桜」というお言葉にふれる時、我々が仏さまから願われ、我々の命の姿に手を合わして呼んでくださっているように感じられます。その仏さまの呼びかけに呼応する時「南無阿弥陀仏」という念仏が私の中から起こるのです。
證大寺本坊 銀田琢也