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2023年02月
寺院も宗団も挙げて如何に経営するかが第一義とされて居る事実が教団の死の表白である。

寺院も宗団も挙げて如何に経営するかが第一義とされて居る事実が教団の死の表白である。 
(『真人』「教団のいのり」)

題名の言葉の続きは「教学としての教相こそ教団の存在根拠である」と言われます。お寺は仏法を聞くところなのか。それとも経営第一として、その片手間で仏法を聴聞する場所なのか。どちらが先か後か。それとも二つは水と油のように決して相いれない分かれたものなのか。私にはわかりません。
しかし、何か問わずにはおれない大事な問いであると思っております。それはどこかで一つを選び取りたい自分がいるからです。教えを置き去りにして振り切りたい気持ちと、真面目に紳士にやっておれば、おのずから結果はついてくると言い聞かせ、自分だけの仏法の世界に閉じこもり、安心したい気持ちがどこかにあるからだと思います。
親鸞聖人は、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」と仰られています。私たちは二項対立する中で、「自分は間違っていない。自分の中ですでに経験し、深く考えて答えを導き出したものであるからこそ間違うわけにはいかない」と正義を振りかざす。その時、私は裁かずにはおれない者で、自分の都合の良いものは受け入れ、相容れない者は拒絶する。
また、自分の世界に閉じこもり、外の世界を遮断し、温室に籠ることを「胎宮」と言います。胎宮は仏智を疑惑する者です。仏智を疑惑するものは仏教を謗る者でもあります。
僧侶とは信心深く、清く正しいものというイメージがあるかもしれませんが、残念ながら私はそのような人物ではありません。内に虚仮をいだくものです。一応付け加えておきますが、自分を卑下してそう言っているわけではありません。「同情するなら金をくれ」と安達祐実が言っていましたが、同情を買い、大金をくれるならかわいそうな子を演じるかもしれませんが・・・。(まだ経験がないので一度だれか私に試してほしいです)
私はどこまでも「おれが、おれが」という我欲にまみれた私です。そんな私に対し「お前は本当にそれでいいのか」と問うのが阿弥陀佛のはたらきです。否、「私」を問うだけではない。「私の世界」をも問います。
親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と仰られています。
我欲にまみれ、全てを私有化しようとする私は、仏法の教えすら自分のモノにしようとする。教えを使い、自分と他のモノは一つになると思い込んでいる。否、宗教者のエゴはどこまでも根深く知らず知らずのうちに教化者意識に飲み込まれている。
宗教とは英語でいうとレ-リジョンです。最検討・再結合という意味があります。「こうだ。こうとしか思えない」と経験を積み重ねる中で決めつけ、固定化し、がんじがらめになったものを、他でもない私が教えに自らを聞いていく。そんな学びほぐす場としてのお寺が、死の表白を超克する唯一の活路なのだと信じています。だからこそ、他人に対し、どうのこうの言う前に自分自身が教えに聞いていかなければいけない。
親鸞聖人は阿弥陀仏のお心を「摂め取って捨てない」と言われます。その左訓に「ものの逃ぐるを追はへとるなり」と書かれております。謗り、逃げる私は正反対だと思うものを両方持っている。「しょっちゅう道を見失う私だからこそ聞いていかないといけないな」と思いながら題名の言葉を考えていました。

證大寺 僧侶 菊地遊

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