歎異抄
歎異抄・第九条
一 「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々
本日の歎異抄・第九条 講義文 しかし、人間が本当に喜ぶべきことというのは何でしょう。交差点で百円拾ったことが嬉しいとか、色々と嬉しいことはあるだろうけれど、嬉しいことというのは、だいたいがすぐに色褪せてしまいます。百円拾った喜びは、すぐに千円拾う喜びに負けてしまいますね。百円が千円になればいいな。千円が、一万円が、十万円、一千万円、一億円、百億円というように、欲望には限りがないのです。だから、私たちの嬉しいとか喜びというのは、あさましいものです。この世で一番楽しかったのは何ですか、なかなかいえない話ですけれども、隣の家が丸焼けになったときが一番楽しかった、というような根性を持っているのが人間です。
(よろこばぬにて、いよいよ往生は一定 243頁6行目~243頁11行目)