歎異抄
歎異抄・第六条
一 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論
の 候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず 候ふ。そのゆゑは、わ
がはからひにて、ひとに念仏を申させ候はば こそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあ
づかつて念仏申し 候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つ くべき
縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのある をも、師をそむきて、ひとにつれ
て念仏すれば、往生すべからざる ものなりなんどといふこと、不可説なり。如来よりたまはり
たる信 心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすも あるべからざるこ
となり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩を もしり、また師の恩をもしるべきなりと云々
。
本日の歎異抄・第六条 講義文
お念仏は、これは一人一人の命の不可思議さ、尊さを示すものです。一人一人、誰も計らって
命を恵まれた人はいません。私はこの家に生まれたいと思って、計らって生まれた人はいませ
んし、親にしても、このような子どもをもちたいといって作れる人はいないのです。一人一人
の命というのは、やはりいただいたものだということが率直な感じだと思います。
(ひとにつれて念仏すれば 161頁後7行目~161頁後4行目)