人間ってのはもともとみんな違う。
無理に普通にならなくてもいいはずだ。
イブラヒモビッチ
昨年四十一歳で現役を引退した、スウェーデン代表のサッカー選手、イブラヒモビッチの言葉を紹介します。ヨーロッパの一流クラブを渡り歩き、アクロバティックなプレーで人々を魅了し、史上最高のストライカーと評される一方、歯に衣着せぬ物言いで名言迷言が多いことでも有名な方です。興味のある方は検索してみてください。
さて、今月の言葉にある「普通」とはなんでしょうか?普段私たちは当たり前のように学校でも職場でも家庭でも「普通は~」「~って普通じゃないよね」などと言いませんか?「普通の考え方」や「普通の顔」ってどんな考え方や顔でしょう。今月の言葉は「普通」について考えてみたいと思います。
近年多様性ということがよく言われていますが、基本人間社会は複数で構成されるがゆえに大多数の論理があって、集合の中心点が「普通」となるのでしょう。しかし実は中心点がおぼろげで誰も明確に答えられなかったりします。社会情勢や流行やその時の常識といった流動的な基準の中で、大多数の意思などというあいまいなことが標準偏差とされ、その付近をなんとなく「普通」と言っているのでしょう。
「普通」の問題は、より中心に近いところに居たい、中心から遠いものを異端としてしまう人間の心にあると思います。この集団心理の中で、中心から外れる恐怖や、中心から外れているものを嫌う心があるのです。本来人間は一人一人皆違い、まったく同じ人は一人といません。たとえよく似た双子であってもそうでしょう。生まれ持った容姿や能力、嗜好、成長に伴う考え方など皆違うはずです。何故そもそも皆違うはずなのに、それをお互いに認め合えないのでしょうか。違う者同士の中にむりやり「普通」を作ろうとし、普通から外れるものを選んで嫌って見捨てる、私たちの心とはいったいなんでしょうか。
仏教では違う者同士がお互いに認め合い、それぞれありのままで輝いている世界を浄土といいます。お釈迦様が浄土の様子を説いた『仏説阿弥陀経』に、
「池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔」
という一説があります。浄土にある池の中には色とりどりの蓮の花がそれぞれ光り輝いて咲いています…という意味ですが、色の違いは個性、その個がそれぞれ堂々と咲いていられる場所ということです。この一説より自分が普段使っている「普通」が問われてきます。「普通」の根拠とは何か、「普通」と言うときの自分の心のありようはどういうことかということです。
蓮如上人五百回忌御遠忌のスローガンに「バラバラでいっしょ 差異(ちがい)をみとめる世界の発見」というものがあります。まずは差異を認められない自分に気づく(教えられる)ことが大事であろうと思うのです。認められない心に「普通」が生まれるのだと思います。そもそも「普通の考え方」や「普通の顔」などないのです。
人間社会の様々な問題において、私たちをけして選ばず嫌わず見捨てない仏さまの教えから自身が問われてくる、これが一番大事なことであろうと思うのです。
船橋支坊 溝邊 貴彦