仏教では、私たちの人生を「苦しみ」の人生と教えています。物質的生活が便利で快適になり、豊かになったように見える今の私たちの生活ですが、「苦しみ」がなくなったとは言えません。
身近な家庭をはじめとする人間関係の崩壊や教育の問題などの苦しみが進行し、世界中で戦争や環境破壊、そのための悲劇が深まっています。それを見るにつけ、経済的な豊かさの背後で生み出される、多くの苦しみを思わざるを得ないのです。
私たちは、この世の苦しみの原因を他人や外部、自分を除いた環境に求めがちです。それは、苦しみの縁ではあっても、原因ではありません。むしろその原因は、自分自身にあります。
「生老病死」を四苦といい、人生は苦であるといいますが、苦とはどういうことでしょうか。それぞれが苦といっても、苦の意味が違えば、話がかみ合いません。
病気とかで体が苦しいというのも、楽になりたいと思うのですが、なかなか自分の思いどおりに楽にはならない。だから苦だと考えます。
「生老病死」は自分の思いどおりになりません。これはすでに体験していることです。
今日「老後」という言葉をよく聞きますが、何か人生の表舞台から退いて終焉をむかえるまでのしばしの間の時間、よく言えば悠々自適、逆に言えば、もう誰からも必要とされずに、細々と生きているイメージがあります。
また、若くて元気で社会的に活躍している青年とか壮年、そこにある意味では人生の華やかさを感じます。それに対して「老後」という言葉です。この「老後」と言う言葉が使われるようになったのは明治以降だそうです。明治以前には、「老後」という言葉はなかったそうです。
どのように言っていたかというと「老いに入る」「老入(おいれ)」という言い方をしたそうです。そうなりますと、全然違ってきます。いのちが老いという新しい状態を生きていく。これから老いという世界を生き始める。決して若さから落ちたとかいうことじゃなくてこれから始まる。 いのちは若くて元気な時にいのちがあって、年とっていけばいのちがなくなるのではありません。
私たちは、限りある生を、様々ないのちとのつながりの中に生かされています。けれども、我執という自分中心のものの見方が、そのようないのちの道理を見えなくさせ、そこから、不安や悲しみや怒りが起こってくるのです。
こうした苦しみから解き放たれて真実のいのちの世界に生きるためには、誤った自分のあり方をしっかりと見抜き、本当の自分に出遇うことが必要ではないでしょうか。
證大寺 森林公園昭和浄苑支坊 渡邊 晃