人に好かれるか好かれないかということで、
生きているのではなかったはずだ。
おまえは、生きる。
山田かまち
この言葉は山田かまち氏の詩「生きる」の中の言葉です。又この言葉は山田かまち氏が自分になげいている言葉です。自分に「おまえ」と呼びかける詩です。
私は他人の目が気になるような息苦しい世界を生きています。好かれる事に生きる価値しか感じられず、嫌われてしまう事に恐怖します。それは、自分であることがままならない不自由な生き方だと思います。
自然界にはそのような不自由はないでしょう。桜でない木が桜の木に嫉妬して、「桜の木よりも好かれたい」なんていう感情はないでしょう。その木は桜の木ではないそのままの姿を生きているのだと思います。たとえ私が桜の木の美しさの方にだけ心が奪われたとしても、その木はその木のままで満足した姿があるのです。私の不自由な感情を超えている何かを感じます。
しかし私は、どうしても思いにかなってない自分には落ち着けません。思いにかなう自分になろうとして悪戦苦闘してしまう生き方を変えられない悲しみを抱えています。
『仏説無量寿経』には、たとえ国王であっても不自由・悲しみを抱えていることが教えられています。
ある国王の物語です。国王は、あらゆるものが満たされるようになっていてもいつも何か不自由さを感じていました。そこで世自在王仏という師をたずねるのです。世自在王仏は、自分が自分であることに自由で、迷いを超え、自らの命の願いに満ち満ちて、この世のどこをさがしても見たことがないようなおおらかなお姿をされていたのです。国王は、そのお姿に本当の尊さを見たのでした。そのことをお経では、
「人雄・師子」と説かれています。(『仏説無量寿経』真宗聖典一一頁)
この世において獅子のように勇ましく、自分が自分であることの勇気を教えられるようなお姿として表わされています。一本の木が、木としてそのままを生きている尊さです。その願いに満ちた世自在王仏のお姿に出遇って、「おまえは、生きる」との勇ましい願いが自分にかけられているような感動の声として国王に聞こえてきたのだと思います。
そのことをとおして初めて「わたしもそのような命の願いに満ちた生き方をしたい」との本願がおこされ、国王はそれまでの自分に死して、修行者・法蔵菩薩となり、新しい自分が生まれだされたのです。そして、やがて法蔵菩薩は、この世の悲しみに生きるすべての衆生を、大慈大悲心をもって救済する阿弥陀仏となられたのです。
「人に好かれるか好かれないかということで、生きているのではなかったはずだ。おまえは、生きる」
との言葉に、新たな命を生みだそうとする大いなる願いを感ぜずにはおれないのです。
森林公園・昭和浄苑 銀田 琢也