お寺の報恩講(※)の季節になると、必ず思い出す一コマがあります。祖父の思い出です。・・・いそいそと明日の着替えをタオルにくるみ、それを枕元に置きおじいちゃんの布団に潜り込んだ。ひとしきりおじいちゃんの腕枕で柿の木の話や椿の話を子守唄のように聞いていた。暫くして首がつかれてきたので
「おじいちゃん腕しびれへんの?」
と尋ねた。
「もう寝えや…明日は4時に起きるでな。ナムナムするんやろ?気い遣わんでええから、はよ寝えやあ」
という声に促され、
「うん」
と頷きおじいちゃんの腕に頭をゆだねた。
おじいちゃんの話を聞きながら、腕枕してもらうのは嬉しいけれど、おじいちゃんの腕がしびれたらあかんという思いから僕なりに気を遣って半分頭をあげながら話を聞いていたのだ。 おじいちゃんの言葉にハッとして、そうだった、縁側でおじいちゃんに教えてもらったキミョウムリョウジュニョライを、明日みんなと一緒に大きな声であげるんだった。すっかり忘れていた。おじいちゃんの言葉にホッとして、おじいちゃんの匂いを嗅ぎながら眠りについた…。
思い出すたびにこころが満たされ晴れ晴れとして”よっしゃ〜がんばろう!!”と全身に力がみなぎるのを感じます。そんな思い出は、年を追うごとにより鮮明になっています。思い出すたびに今年も一つ年を重ねたなぁ、今年も生きとったなぁ、今年もおじいちゃんに会えたなぁと、すがすがしい気持ちで報恩講を迎ています。
祖父の言葉は、いつでも私を励まし、私を包み込んでくれているように感じます。祖父を想う私を通して、祖父から想われている私に出遇うことが出来ます。祖父の存在は父の存在、父の存在は私という存在をもって既に証明されています。今、私が私として存在する背景に、私に繋がるあまたの存在が、この私となってくださっていることに気付かされます。この命の歴史に出遇うこと、向き合おうとする意欲が私の生きる意味だと思います。
江戸川本坊 尾崎 隆文
(※)報恩講…親鸞聖人のご命日に報恩のために行う法会。