どうしようもないわたしが歩いてゐる 種田山頭火
私は愛知県田原市に生まれ、高校までその地で学生生活を送りました。暗記中心の勉強や偏差値、通信簿での評価に疑問を抱いていた私は、仏教や自己について学ぶための大学が京都にあることを知り、入学を希望しました。そして、推薦枠で大谷大学真宗学科に入学しました。
大学生活が始まると、授業は非常に楽しく、充実した日々を過ごしました。大学二年生のとき、熱心に学業に励む私を見て、教授から得度を受けて僧侶になることを勧められました。僧侶になるための「真宗大谷派教師」という資格を取得するため、大学で単位を取得し、必要な前期修練に臨みました。東本願寺の隣にある研修道場で一週間、修練に励む日々が続きました。
道場の壁には様々な言葉が大きな紙に筆で書かれ、掲示されていました。その中にあった「どうしようもないわたしが歩いてゐる」という言葉は、私にとって初めて目にするもので、思わず笑ってしまいました。このことを、一緒に修練を受けていた五十代の男性に話すと、「何がそんなに可笑しいんだ」と戸惑った様子で返されたのを覚えています。
四年間の学びの中で、資格取得のための単位は無事に取得できましたが、最終学年で受けるはずだった後期修練は、一般企業への就職を理由に受けることができませんでした。この言葉については、大学卒業後しばらく経ってから調べ始めました。作者やその背景についてようやく知ることができました。
種田山頭火は旅をしながら多くの自由律俳句を詠んだ詩人です。父の芸者遊びや、幼少期の母の自殺、弟の自殺など、家族の苦悩を抱えながら、俳句にその思いを込めていました。四十歳で出家し、托鉢をしながら全国を巡りました。山頭火は何度も遍路行を繰り返し、五十七歳で脳溢血により亡くなりました。彼の晩年の俳句には、「山頭火よ、愚にかへれ、愚を守れ、愚におちつけ!」や「愚を守る、貧乏におちつく、無能無力に安んずるおのれにかへる」といった言葉があります。
種田山頭火の言葉に触れることで、私自身の在り方が問われています。「どうしようもないわたしが歩いてゐる」という大切な言葉に気づかなかった自分の傲慢さや、今でもそのような自分がいて、自力で何とかしようとしてもできないことにぶつかり、生きることが辛いと感じることが少なくありません。あれから二十六年が経ちましたが、この言葉は常に私の心に残っています。
どうしようもないのは私自身であり、なんとなく気づいていたけれど、その時には受け入れることができませんでした。あれからずっと忘れられない言葉となり、二十六年後にようやく真宗大谷派教師資格を再び受けることができ、今はこの證大寺江東別院の僧侶として日々を過ごしています。
私は自分で何かを成し遂げていると思っていましたが、実はそうではありませんでした。自分自身をどうすることもできない私たち人間に、阿弥陀仏は必ず救うと誓願を立てておられます。そして、私たちの一生は修行の道であり、迷い続けることに気づかせていただくのです。自分の愚かさに気づき、自分自身がはっきりとわかるということは、とても有難いと手が合わさってくるものだと思います。
南無阿弥陀仏
證大寺 江東別院 岡田寛子