私は、突然、「死」の意識にとらわれることがあります。「私はいつか死ぬ。そのとき、今、私に起こっているすべてが消えて無くなってしまう」という感覚です。それは友人と何気ない会話をしているときや、一人で町を歩いているときなど、時と場所を選ばず頻発します。
幼いころは恐怖でした。例えば夜、布団の中で眠りに入ろうとした時、不意に「死」が襲ってきます。私はとび起きて、襖から漏れてくる光の隙間からそっと隣の部屋をのぞくと、両親がいつもどおりお茶を飲みながらテレビを観ていました。蛍光灯の白い明りの中で団欒する二人の姿を見て、安心して布団にもどり眠りについたというようなことが何度もありました。以来、「死」は恐怖として私の中に存在し続け、消え去ることはありませんでした。
世間にはよりよく生きていくことを教えてくれる書物がたくさんあります。しかしそのどれも、死ねばすべてを消し去ってしまうという現実を前にして、生きていくことの意義を見出せるものではありませんでした。そんな私の苦悩に真向かいになってくれたのは仏教でした。仏教は「死」を真剣に見つめ、その死の中から生きていく歩みがはじまることを私に教えてくれました。本当は死ぬことも、生きることも私たちには何もわからないのだと思います。人間のはからいではないからです。それを私の力で何とかできると思うところに苦しみが起こります。これを妄想といいます。この妄想を本当の道案内と勘違いして、行く先を見失ってしまうのです。
私は迷ったときには必ず仏教に訪ねます。それは苦悩する人間をおさめとって決して見捨てないという如来の願いが仏教だからです。その願いによって苦しみから救済された先人の方々の言葉を頼りにします。
曽我量深先生は、人間のはからいをすてて如来の願いに生きられた方です。「よび声は、つねにつねにわれわれにひびいてくる。そちらへいくとあぶないぞ。こちらへ来いとことごとくにわれわれにお知らせがある。」と言われ、願いは言葉となって、常に私たちに帰すべき場から招き呼ばれていることを教えてくださっています。
仏教は、妄想の世界に気づかず苦悩して生きる私に、妄想の世界は「あぶない」から、本当の願いの世界へ「来い」と命じてくれます。私の思いほど危ないものはない。そこに真実はない。そらごと、たわごとである。死ぬまでそれは消えることはない。本当の願いに生きよと、先に亡くなっていかれた方が全生命をかけてそのことを伝えてくださっていると思います。それは、どれだけ年を経ても消えることはありません。決して死から離れることなく仏教をどこまでも聞いていく。仏教をよりどころとして生きる。そのことがこれからを生きていく大切な道しるべになると思います。
江戸川本坊 大空