「もったいない・ありがとう・なんまんだぶつ」私の田舎に、この言葉しか言われないおばあちゃんがいた。
三月十一日に発生した東日本大震災から八カ月余りの時が経ちました。被災地ではなかなか復興は進まず、困難で不自由な生活の危機にさらされている方々が、多くおられるのが現状です。その現状をも忘れてゆく生活になっている自分がいます。
「勿体(もったい)ない」という言葉は、今日(こんにち)ではだんだんと忘れられてきました。
物が豊富にあることは一般には幸せなことのようでありますが、仏法の智慧からすれば、まことに不幸なことと言わねばなりません。何故なら、物の氾濫(はんらん)は物への慈しみ(いつくしみ)を麻痺させ、子供から大人まで「恵み」の有難さを忘れさせてしまうからです。
また使い捨てに慣れた世の中は容器やゴミをまき散らし、道路や河川に捨てられているそれらをおちついて見た時にこのままでよいのだろうかと恐ろしくさえ思うことがあります。
人間の知恵は、科学や経済を優先するあまり、より便利さを求め、物をたくさん作り出すことを善とし、それが人間にとって幸せなことと考えてきました。しかしその結果、自然を破壊し汚染することに慣れ、食べ物を捨てることも苦にならず、物を粗末にすることに慣れてしまったのではないでしょうか。
仏法では「たくさん」であることを善しとせず、その物の「値打ち」を問題とします。
そして私たちは、あらゆるものに込められている「恵み」に生かされ、ささえられていることを知らされるのであります。そこにこそ、何物も粗末にすることのできない厳粛な世界が広がるのです。
しかし、三月十一日以前には、次々と作り出される品々を使い、便利できれいで明るく楽しい生活を求めてやまなかった、私たちがいました。現実を見る時、私たちは「恵み」に麻痺(まひ)するのは無理もないことかもしれませんが、ただこれに甘んじた姿には決して「幸(さいわい)」はないと思われます。
それが、三月十一日を機に、方向転換を迫られているのではないでしょうか。また、どういう方向へ転換しなければならないのでしょうか。多くの人の死を悼み、無駄にすることなく、声なき声を聞き、今までの便利できれいで明るく楽しさを求めて来た生活から、何かを学び、今ある生活の有難さを確認する方向転換をしていくことこそ、仏さまの「智慧」に照らされ、我々の思いどおりを求めてやまない自身を認めていくことの大切さを、田舎のおばあちゃんのことばから思いだされ、問われてきます。
南無阿弥陀仏
證大寺 森林公園支坊 渡邊 晃