仏教では、「諸行無常」という教えがあります。ありとあらゆる現象のうつりかわり、変化してやまないことを言うこの言葉が、わたしたちの「苦悩」を解きあかすひとつの鍵(キーワード)となるのではないでしょうか。これは、わたしたちの生存の有り様を言い当てた道理なのです。聞法とは、その道理を聞くことなのです。自分を棚にあげて、「世の中は移り変わっているなあ」と眺めていることではありません。ほかでもない自分自身の、身の事実として聞いていくのです。
ある法要のときに子供から、「ぼくのおじいちゃんは、どうして死んじゃったの?」と尋ねられて、答えに困ったことがありました。「病気で亡くなってしまったんだよ」と答えても、それはその子の質問に答えたことにならないと、とっさに感じたからです。「人間は、なぜ死んでしまうの?」と尋ねられた様に思いました。
大人はみんな、一応は知っております。人間、或いは生きとし生けるものはいつか必ず死んでいかなければならないことを。しかし、自分がいつ、どんなかたちで死んでいくのかをだれも知りません。自分自身の生死のことは何も知らないものなのです。それなのに、明日もあさっても五年後も十年後も、自分は生きていると信じて毎日を過ごしているのではないでしょうか。そして、ある日突然、大切な人を亡くし死に直面すると目の前が真っ暗になるのではないでしょうか。何故・・どうして・・・・。
わたしの思いからすれば、わたしの死は不条理です。しかし、生かされて生きている人間は必ずや死していかねばならないのです、それが道理−法−です。法をそしり、自分の理屈だけで生活しているわたしたちの日常が、子供の言葉をとうして教えられたようにおもいます。
わたしたちは、自分の根本の問い「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり」を忘れていることに「気付かず生活している」のではないでしょうか。生かされていることを存外あたりまえにしておりますが、生かされていることはあたりまえな事ではなかったと「気づかされたその時」、事実の教えに光輝やいていけるのではないでしょうか。そのとき、いま・ここに、こうして生きていることに・・・。そこに信心の完成があるのではないでしょうか。
船橋昭和浄苑 黒澤 浄光