中村久子さんは明治30年に飛騨高山で生まれ、3歳の時に特発性脱疽という病気で、両手両足を失いました。父は7歳の時に治療費の借金を残して死亡。母は生活苦の為に2歳年下の弟を親戚に預け、久子さんを連れて再婚しましたが、新しい家族とは馴染めず、又、体を理由に学校に行かせて貰えませんでした。そこで独学で字を学び、ロで書くことを覚えました。その悔しさに「生まれなければ良かった」と悲嘆し、その体を受け入れられず、自ら「いのち」を絶とうと思うことも有りました。そんな久子さんから私は二つのことを学びました。一つは「いのちの私物化」について、もう一つは「慢心」についてです。
久子さんが自ら「いのち」を断とうと思った時、久子さんが「主」で、いのちが「従」の関係です。しかし「いのち」は久子さんに先だって生きていますので、いのちが「主」で久子さんが「従」の関係なのです。「従」の久子さんは「主」のいのちの中に生かされています。久子さんが「いのち」を断とうとすることは「いのち」を我が物にすること。即ち、それが「いのちの私物化」になると思います。
次に慢心のことですが、先に久子さんの母について紹介します。久子さんの母は「人に迷惑をかけずに一人で生きて行けるように」と厳しくしつけたので、久子さんは何度も母を恨みました。しかし、負けず嫌いの性格から、髪を結うことと、背中をかくこと以外は一人で出来るようになり「慢心」の思いが芽生えて来ました。久子さんは「苦悩は努力すればなんとかなる世界であった。又、そうして来た」と言われています。これが慢心の根っこに有ったのです。しかし、久子さんはあることから精神的な行き詰まり状態になり、努力してもどうにもならなく成りました。そして42歳の時にある人から『歎異抄(たんにしょう)』に学ぶご縁を得て、自分自身を知りました。そのことを久子さんは「無手足の身なるがゆえに努力して苦労したのも、実は心の奥にいつもある高いものによってなされたことであったが、その成果を慢心というもので引き代えていた。その慢心が破られた今、いまわしい身としてしか存在しなかった無手足の身を、如来より賜った身としていただき直すことが出来た。」(『親鸞に出遇ったひとびと』第四巻)と告白していますが、歎異抄は久子さんの心の中に「自分を知る力としてはたらいた」のです。私は「この世界は努力すればなんとかなる世界では無く、全ては縁に因って起こる縁起の世界である」ことを久子さんは歎異抄から体得されたと思います。その結果、今まで自分の努力に頼っていた自分に気付き、頭が下がったのでしょう。ですから久子さんは「私を救ったのは、両手両足のない私自身の体であった」と言い切っています。そしてその体を引き受けた久子さんは「今までのことが全て教えに導かれるご縁で有った」と、苦しみが喜びへと転じたと思います。そして久子さんは「鬼だと思っていた母を悲母なる菩薩として仰ぎ、又、新興宗教にこって果てた父を、真実の道を歩めよかしと示した仏心であったと」(同)と、言わずにはおれなかったのでしょう。今月のことばは、久子さんが「親鸞聖人と両親と共に、念仏の教えを心の中で生きている」ことを確認されたことばではないでしょうか。
船橋昭和浄苑 加藤 順