秋葉原で起きた連続殺傷事件の被害者のある男性が、加害者の青年に対して、怒りよりもそのような行動しか取れなかった加害者の青年に悲しみを感じる、と述ベておられました。この言葉を聞いて、改めて事件を起こす選択肢しかなかった青年と、その青年と同じ社会を生きる私自身が問われています。
私は相手に理解してもらいたいと考え、理解してもらえないと何故理解してくれないのかと腹が立ちます。この心の底には、自分は理解されて当たり前で、理解しようとしない相手が悪いと外側に向かっていく気持ちがあります。
私達は他者の評価や世間の価値観で自分に烙印を押していないでしょうか。『往生要集』には、大工さんが木材に墨を塗った縄を打って線を引くように、欲に基づいた価値観で自分を決め付け、その価値観に会うように自分を切り刻む黒縄地獄が示されていますが、そのような在り方は生きながらの地獄です。私達はこの広い世界に生まれながら、自分の心で自分を決めつけ、蚕が自分の吐いた糸で身動きがとれなくなるように、自分の殻に閉じこもり身動きが取れなくなっているようです。
しかし他者は私のことを本当は知らず、また私自身も本当には自分のことを知らないのです。自己責任、勝ち組、負け組み、さまざまに人を決めつけていく言葉が溢れています。しかしそれもすべては自分の努力や心がけではなく、それよりも大きなものは縁なのです。私達が今存在していることは、学生の頃に描いていた通りの人がいるでしょうか。本当はこれまで思い通りになったことは一つもないのではないでしょうか。たとえ明日私が死ぬとしても、今日の私はそのことを知らないのです。また明日には嬉しい出来事がおこるかもしれません。これは私達の重い計らいが及ばないという点で不思議ですが、不思議だから私達は生きていけるのだと思います。
南無不可思議光という言葉があります。これは南無阿弥陀仏の訳です。自分の思い計らいが及ばない(不可思議)世界に頭を下げます(南無)、という意味です。そこには私達は不完全な人間であり、未来のことも決められないし、本当は正しいことも悪いことも仏様のようには知らないと安心して言える内面の世界があります。
自分を信じられないから仏様を信じるといいますが、親鸞は「阿弥陀仏はかねてより私達を煩悩が満ちて、悩み腹立ち、そねみ妬む心の多い者と知っておられるので、阿弥陀仏の悲願はこのような私の為だと知られて、ますます頼もしく思える」(歎異抄第九条取意)と述べています。ありのままの自分を知った上で応援している働きを親鸞は他力と名づけました。私達の安心できる心の広場を確認したいと思います。
證大寺住職 井上城治