念仏の教えに出遇った親鸞聖人は、念仏の教えを信じてとるか、また念仏の教えを信じなく捨てようとも、それぞれの人の考えによるものとして、他人に念仏の教えを決して強要されなかった。
この意味は大切な事だと思います。現代という時代は、幸せ(幸福)な生活を求め・願って占いに行くことや、癒し、色や方角・日時・の良し悪し、守護霊・死後の世界への不安などの依存症を作り出している。
つまりスピリチュアル・ブームというべき時代です。テレビなどのマスメディアの影響力は強く例えば、私自身、「細木さんが・・・、江原さんが・・・と言っていますが」など、良く質問をされることがあります。その方々は、本当にその事が問題で真剣なのです。
若い人から、お年寄りの幅広い世代まで、日本人の病的依存症は、変わっていないということでしょうか。
名前の改名、旅行などの行き先、友人、服装構成、アクセサリーまでたよる者に決めてもらう人々がいるといいます。
幸せを求める事は確かですが、少しの幸せにも気づかずに出会ったことがない。
街中で多くの人に会っても、知人となら出会えるが、知らない人とは出会えないという感じでしょうか、これはどうゆう事でしょう。
少しの幸せを感じていても、幸せとは出会っていないという事になろうかと思います。
何かさみしい事のような気がします。 自分の名前、行く場所、友人などがある。そのこと事態が幸せでないでしょうか。自分自身の生活が、私中心であること、私の都合で良くも悪くもしていくことに気づく事、従って念仏の教えに遇うこと、自分を見つめていく事で、新たな発見を得ることである。
「このうえは」という親鸞聖人の言葉は、法然上人の「ただ念仏せよ」という言葉に依って、ご自分の生き方を定めていかれた大切なこととして受け止めさせていただきました。
森林公園昭和浄苑 惣持 晃