のび太のおばあちゃん
長年親しまれ、老若男女誰もが知っているアニメや漫画の一つにドラえもんがある。今回はこのドラえもんを少々深読みしてみようと思う。
今回の言葉のシーンは、のび太とドラえもんが幼稚園の時に亡くなったのび太のおばあちゃんにタイムスリップして会いに行くというお話。のび太がまだ赤ちゃんの頃に到着した二人は、はからずもおばあちゃんと突然でくわしてしまうことになる。突然自分の部屋に現れた小学生の男の子(のび太)にかけたおばあちゃんの一言がこれだ。
私たちは無条件で信じるということが非常に難しい。逆に疑うということはとても得意であったりする。なぜだろうか。家族を信じる、友を信じる、努力を信じる、自分を信じる…この信じるという行為は、諸手をあげて受け入れることであるからではないだろうか。受け入れるという行為はそうそう簡単にはいかない。なぜなら、自分自身や大切な何かを任せることになるからである。受け入れるということは自分が傷つく可能性が高くなるということだ。
さて、お寺に行くとこの信じるということがたくさん出てくる。信仰、信心、信徒…お寺はこの信じるという行為によって成り立っているのだ。お寺だけではない、教会も神社もそう、およそ宗教と名のつくものはこの信じるということなしでは成り立たない。宗教が無くならない理由は、人間は信じるということが難しい以上に、この信じることなしに生きていけないからである。
そこで何を信じるかということが実はとても大切な問題となってくる。親鸞聖人の受け止めは、自身を煩悩具足の凡夫であると信知して、如来よりたまわる信心は誰でもない自分の為であったと感謝せずにはおられないということ。親鸞聖人の了解は、いわゆる信じるとは少し異なる。普段信じるといった時には、自分の力を信じるとか、自分の判断を信じるというように主体が自分である。のび太のお話で言えば信じるのはおばあちゃんであり、おばあちゃんが信じる主体だ。対して親鸞聖人は、自分を信じられる側、のび太であるとする。おばあちゃんは如来である。
自分の主体をのび太に重ねる。たとえどんな自分で、どのような状況であっても、無条件でありのまま信じられているということ。そこにこそ初めて深い感謝が生まれるのであって、これこそが本来の仏の受け止めであり、救いであろうと思うのです。
船橋支坊 溝邊 貴彦