一度も悩んだことのないお坊さんの言葉を
私は信用できない。
だから悩めばいいと思う。
友人の言葉
この言葉は、私が京都で仏教を学んでいたた時に、高校時代の友人からかけられたものです。
私は、親戚の家がお寺ではありましたが、今まで仏教について触れる機会はほとんどありませんでした。縁あって大谷大学に入学し仏教の勉強をしていく中で、仏教が私の人生にとって大切なものと感じ、僧侶になろうと決めました。
しかし、僧侶になりたいと思う一方で、私なんかが果たして僧侶としてやっていけるのかと悩みました。そこで、当時から仲が良く今も親交のある高校の友人に相談したところ、この言葉が返ってきたのです。確かにその通りだと感じました。
親鸞聖人の生涯を振り返ってみますと、比叡山で煩悩の深さを知り、念仏の教えに出遇った後も念仏弾圧による流罪、実の息子である善鸞を義絶するなど様々な出来事が起こっています。当時の社会全体の背景なども考慮すると、親鸞聖人のご苦労というものははかり知れないものと思います。だからこそ『教行信証』をはじめ、親鸞聖人の様々な教えが生まれてきたと言えます。
また、弟子の唯円も同様に大変悩み苦労された人と言えます。唯円は『歎異抄』の冒頭で、「竊に愚案を回らして、粗古今を勘うるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き」(『真宗聖典』六二六頁)と述べ、終わりに「一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめてこれをしるす。」(『真宗聖典』六四一頁)と記しています。聖人が亡くなった後の時代に、唯円自身も含め教えの受け止めが異なっていることを歎き、聖人の教えを確かめ直す姿が見えてくるものです。
改めて私自身を振り返ると、僧侶になることへの不安の要因が、できない・わからないで何か失敗して自分が傷つくことを恐れる「我執」にあるように感じました。根本に悩みがなく良いことだけを望む心を持っていたのです。僧侶の経験が無いのだから、初めから全てのことがうまくいかないことは当然です。友人の「悩めばいいと思う」という言葉は、現実から目を背けずに、ありのままを受けとめていくことの大切さを教えてくれました。人は失敗から学んで成長するものであるので、これから経験する全てのことが私にとって人生の糧になるでしょう。
私は、良いこと(自分にとって都合のよいこと)ばかり考えて、その通りにならないと怒ったり、不安になったりすることがあります。誰しも失敗したくない、問題を起こしたくない、あるいは成功したいと考えるのかもしれません。しかし、その思いにとらわれるとやはり悩みは尽きないと思います。
人は縁によって、どのような振る舞いもしますし、逆に受けることもあります。決して自分が思い描いた通りに物事は進まないものです。そのことをはっきりと自覚し、念仏の教え、親鸞聖人の教えを拠り所として、その上でどのように人生を歩めばよいかを考えていきたいと思います。
江戸川 本坊 僧侶 小原悠山