この言葉は、浄土真宗では七高僧の中の第4祖である中国の道綽禅師の『安楽集』に記された言葉です。この言葉を浄土真宗の宗祖親鸞聖人は『教行信証』の「化身土巻」の最後のところに引用なさっています。この言葉は親鸞聖人がお書きになられた『教行信証』の最後のしめくくりの言葉と受け取ることができます。
前に生まれた者を導いて、後に生まれた者が前に生まれた者を訪ねていく。
その営みは永遠に続いて行く営みです。なぜこの営みが永遠に続くかというと、
『前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え』のあとに『連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。』と書かれています。
『無辺の生死海を尽くす』とはどのようなことなのでしょうか。自分の思い通りにならないと悩み、苦しむ。思い通りになると満足する。そんな日々の生活で、心から本当に安心することが出来ない。しかし、誰もが安心して生きたい、生きる意味を持ちたいと願っている。そこに念仏を学ぶ目的があると親鸞聖人が言っているように思います。『南無阿弥陀仏』のことばの中にそれが問われているのです。
以前に「親鸞聖人から教えられる念仏は、本当は念念仏と言わなければならないのではないか」とお聞きしたことがあります。ただ仏を念じるのではなく、私が念じるより先に私を念じてくださっている仏を念じることが本当の念仏だと言われるです。私自身の生き方を問うもの、これが親鸞聖人のお念仏です。
親鸞聖人は、念仏を「真実の行」とも言われましたが、生活とか生き方という意味です。念仏は生活、生き方が課題にされているからこそ、「真実の行」と言われるのだと、また「念仏者とは、行者」とも言われています。
答えとして『南無阿弥陀仏』を信じ込むのではなく、自分の生き方を問い続ける者、私たちに向かって発せられる大事な仏さまからのメッセージを聞き続ける者ということだと思います。
親鸞聖人が『教行信証』の末文のしめくくりとしてこの言葉を引用されているのは、自らの求道の経験から、後の世に生きる私たちの生き方への呼びかけではないでしょうか。
呼びかけは導くこと、また伝えることで、伝えることは財産や手段ではなく、自信をもてる生き方ということではないでしょうか。