この掲示板をご覧になっている皆さんは、お正月のお参りやご法事など、亡くなった方の仏縁でお参りに訪れたのではないでしょうか。
亡き方を弔う(とむらう・とぶらう)という言葉は、訪ねるという言葉と元はひとつです。さらに尋ねるという内容を持ちます。
墓参や法事を縁として亡き方を訪ね、自分の生き方を亡き方に尋ねる稀な機会が弔うということでしょう。
お釈迦さまはお亡くなりになる際、アーナンダというお弟子に対して、四依(四不依)ということを教えています。
一、法に依って人に依るな
二、義に依って語に依るな
三、智に依って識に依るな
四、正しい教えに依って、迷信に依るな
字数の関係で最初だけ紹介すると、「法」とはサンズイに去ると記します。サンズイは水を示しますので、水が去るということで流れる川を意味しています。流れる川は何万年を経ても腐りません。「諸行無常」、「万有引力の法則」など、十万年前も十万年後も不変の道理のことを仏教では「法」と言います。それに対して人は移り変わります。どれほど忘れたくないと思っていても、私たちの記憶はどんどん薄れていきます。
それでは亡き方を忘れないためにはどうすればいいのでしょうか。それには亡き方と新たに出会い直していけばいいのです。その方を思い出とせずに、出会った意味を尋ね続けるところに、古くならない出会いがあります。流れる水をコップに入れて置いておけば時間が経つと飲めなくなります。しかし流れる川からその都度、水を汲めば新鮮な水をいただくことができるのです。
『仏説阿弥陀経』というお経には、阿弥陀如来は「今現在説法したまう」と説かれています。仏教では、亡くなった方を死者として供養して思い出とすることなく、
亡くなった方を仏さまとして出会い直し、その方の「今現在説法」に訪(とむら)い、尋ねることを教えています。
アーナンダに「これからは人に依らず法に依れ」と呼びかけて、間もなくお釈迦さまは亡くなりました。その言葉を受けてアーナンダは、「如是我聞」(このように私は受け取りました)と述べて、お釈迦さまとの出会いを確かめました。二千年前にお亡くなりになったお釈迦さまを想い出とすることなく、また個人の人として拝むのではなく、お釈迦さまが教えてくれた法を拝んできました。
そしてお釈迦さまだけでなく、私たちと縁のある亡き方を仏さまとして拝むところに「私と出会った意味をあなたはどのように受けとめて、あなたの今日を生きていきますか?」との古くならない出会いがあるのでしょう。
川の水はいつまでも腐らず、それを飲む人の命となります。 人に出会い、その人の願いを生きることが願われています。
證大寺 住職井上城治