往生という言葉を聞いて、皆様はどのようなイメージを持たれますか?「立往生」または「大往生」というように、往生とは困ることや死ぬこととして使われているようです。しかし往生という言葉は本来、「生き方」を示した仏教の大切な言葉なのです。「往生」の「往」とは「往く」ということ、「生」は「生まれる・生きる」ということです。人生の目的に向けて、往きつつ生まれつつあることが「往生」なのです。それでは私たちの人生の目的とはいったいなんでしょうか。この問いは今も昔も、人として必ず問わずにおられない課題です。
どれほどお金を得ても、肩書を得ても、それで満足して死んでいくことができないとすれば、いつ終わるかわからない人生を生きている我々にとって、人生は空しいこととなってしまいます。それではどうすれば、本当の満足した人生を送ることができるのでしょうか。この事を『歎異抄』(たんにしょう)という書物には「ひとえに往生極楽の道を問いきかんがためなり」という言葉で示されています。これは親鸞聖人から私たちへの問いかけです。100人には100通りの人生の目的があるということではなく、人として生まれ、安心して生きてそして死んでいくには「往生極楽の道を確かめて生きてください」と教えているのです。
仏教では極楽浄土に生まれれば、すべてのものが仏となり迷いも苦しみもなく本当の満足を得られる世界だと教えます。これはどこかにある・ないという世界ではなく、私たちの心境として現在から与えられている世界です。今でも居心地の良い世界や、たとえば温泉に入った時に、「ああ極楽極楽」というような気持ちになります。しかし気持ちいいはずの温泉も、ずっと入り続ければ「苦しみ」に変わります。このくような苦しみに変わることのない場所を極楽といいます。これを一言でいえば、完全な満足が完成する場所といえます。
仏教では我々の人生の目的は、出世本懐(しゅっせほんがい)を遂げること、すなわち「生まれて良かった、生きてきて良かった」と心から言えることだと教えます。このことを求めながら生きる人生が始まることを「往生」と呼び、そしてそのことが心の底から納得できたとき、私たちに極楽浄土への往生がいよいよ完成するのです。往生とは「生まれて良かった・生きてきて良かった」といえる人生を完成をさせるための生き方を示しているのです。
井上 城治