私たちは、自分の思いどおりに事が運んでいるときは、意気揚々とし、自分や他人をいとおしく思います。けれども、思いどおりにゆかなくなると、その途端、意気消沈し、自分や他人を持て余してしまいます。そんな中で、自分の思いに適うものを増やし、思いに適わないものを減らしてゆけば幸せになれると思っています。
しかし、どれだけ増やし、どこまで減らせば満たされるというのでしょう。そのように苦を避け楽を求めていくということが、堂々巡りをしているということがありはしないでしょうか。
どうしてそうなってしまうんでしょうか。思わぬことが起こってくるのが人生であるにもかかわらず、自分だけは大丈夫だと思い込んでいることに原因があるようです。そんな私たちに対して、すべての物事は必ず移り変わるということを、仏教は無常と教えています。
その事実に目を覚まさない限り、自分の人生がいつまでも続くように夢見て、結局は空しく過ぎ去ってしまうと呼びかけられます。
「願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽(のこ)すことなかれ」
(親鸞聖人『教行信証』行巻)
自分にとって楽しいことばかりでなくても、問題をかかえていても、その事実以外に自分の人生はどこにもありません。自分に都合のよい未来がやってくることを待っている間に、大切な今は過ぎ去ってしまいます。必ず死ぬ、限りあるいのちであるからこそ、何物にも代えられないのです。無常なるいのちの事実を深く念ぜよとは、今、生きていることのかけがえのなさに目覚めよ、との呼びかけなのです。いのちのかけがえのなさに目覚めるとき、次々と問題が起こってくる人生を生かされるのではないでしょうか。
思いどおりにしていこうとする日常の私自身に問われています。
證大寺森林公園支坊 渡邉 晃