「この教えを信ずるひともあるし、また、そしるひともあるだろう」。と親鸞聖人は『歎異抄』の中で、弥陀の言葉をひかれています。
人はそれぞれ顔、形がちがうように、その人なりの歴史があります。仏教では人間のことを「衆生(しゅじょう)」とよびます。衆生とは衆多(あまた)の生死を受けるものという意味です。また、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上といった、六道を輪廻して様々の異なる生を受けることから、「異生(いしょう)」とよばれます。そんな凡夫の集まりである人間社会であるから、それに応じて、様々に思惑をもった人間が、離合集散しています。仏教教団も同様でいくつもの宗派に分かれています。もともとは拠り所とする教典が違うために派が分かれたのでしょうが、お互いに「わが宗こそ尊し」「われこそ本流である」と主張し、いつの間にか相違を優劣の意識で受けとめるようになり、争論(あらそい)がおこるのです。
世の中には、いろいろの意見や考えをもった人がいますが。お互いが自分の考えにこだわり過ぎて甲論乙駁(こうろんおっばく)の誤りを犯してはいないでしょうか。自分の意見だけは是とし、それと相反する意見にはさらさら耳をかさない。たとえ耳をかしても、その教えは間違いだと決め込んで認めようとしない。相手の言うことを十分聞くこともなく、ただ自分だけの考えおもいをおしつけるのは、耳をふさいでいる人、眼をとじている人といわねばなりません。では、どうすれば眼が開き、耳が聞こえるようになるのでしょうか。せっかく同じ世界に居あわせながら、ばらばらの生き方しかできないこの身のあじけなさが問われる時、はじめて阿弥陀仏の教法に出逢ったとき、この私が暗闇の中にあるときも、調子に乗って自分を見失っているときも、悲しみの中にあるときも、悦びの中にあるときも、迷ってどう歩むか分からなくなったときも、いつでも私に正しく、力強く人間らしく生きることを導きくださる。真実なる歩む方向をお示し下さるのです。「如来とともに歩む」これほど私に力強さと安心を与えて下さる道はないのではないでしょうか。その時こそが、耳が聞こえ、眼の開いた生活がはじまった時なのです。そして、自分の意見に賛成する人だけでなく、違った意見をもつ人もいる。そこに、相手の意見には賛成できなくともそれを十分聞きとり、理解しようとして、お互いに共通の広場を見つけだすことができるのではないでしょうか。
船橋昭和浄苑 黒澤 浄光