ローズ・オブ・パッション
咲かせろ
「ブルーハーツ」
ブルーハーツってカッコいいなと思うのは私だけでしょうか。
今月のともしび掲示板の言葉は、ライブ映像にてブルーハーツのボーカルである甲本ヒロトが『情熱の薔薇』を歌う前に発した言葉です。甲本ヒロトは私の事など知るはずもありません。しかし、「ローズ・オブ・パッション。咲かせろ」というメッセージは、他でもない私に向けられていると思いました。
松任谷由美が『優しさに包まれたなら』で「目に映る 全てのものはメッセージ」と歌っていましたが、世界は私にたくさんメッセージを送っていると思います。ブルーハーツの『情熱の薔薇』もその一つだと思います。
歌が始まると、でたらめな動きがどんどん激しくなっていきます。〈でたらめ〉というと、いい加減で自分勝手なことを指す言葉です。しかし、私の中の何かが躍動してきます。
そして「答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方 涙はそこからやってくる 心のずっと奥の方」と歌い叫びます。
その時、人差し指を掲げる相に私は、熱いものがこみ上げて何だか泣けてきます。自分の中にある何かが、共鳴し共震する感覚に落ち入ります。涙は目からあふれ出てくるものだと思っていましたが、心のずっと奥の方から催されてやってくる事を知らされます。
『情熱の薔薇』は回りくどくなく、ド直球です。なんだか本当の自分が目覚めようとする中で、理性が衝動を必死になって抑えようとしている感覚です。言葉にするのはとても難しいのですが、そんな経験って皆様はありますか。
歌を聞いた時。恋をした時。大事な人の死を目の当たりにした時。雄大な景色を見た時など。自分の中に何かが流れ込み、一つと成る感覚は不思議です。
近代は、デカルトの二元論、それからニュートンの力学法則をもとに、急速に発展してきたと言われています。そんな私たちの思考は物事を相対的に分けて、好きと嫌い。生者と死者。私と世界など。白黒はっきりつけて物事の本質をわかった事にしている時があります。
しかし、実際はそんな簡単な話ではなく、断定出来ない複雑さがあると思います。愛してるがゆえに、大事な人を憎んだり。死者を亡者と思っていた私が、仏様として出会いなおし、その仏様の思いを胸に、他でもない私の、今、ここの歩みが始まったり。環境が人を変革させたり、実在しない地獄を人が作り出して勝手にもがいたり。
私たちは相対分別の中を生きながら、矛盾を抱える〈一人〉として生きているのではないでしょうか。
親鸞聖人は、『教行信証』の総序にて、
「世雄(せおう)の悲、正(まさ)しく
逆謗闡提(ぎゃくほうせんだい)を恵(めぐ)まんと欲(おぼ)す」
(『真宗聖典』P149)
と言われました。〈悲〉とはインド語でカルナです。共に泣くという意味があります。決してかわいそうな、哀れな人を神仏が上から救うのではありません。
また、〈逆謗闡提〉とは、箸にも棒にも掛からぬ者の象徴です。親鸞聖人は私自身の事だと受け止められました。そんな親鸞聖人を想う時、私はどうなのか。私もまた逆謗闡提としての〈一人〉です。そんな逆謗闡提としての〈一人〉でありながら、一緒に泣かずにはおれない本当の私が共鳴し共震する時、矛盾しながらも一致する、私の中の本当の私の存在があぶり出されます。
「ローズ・オブ・パッション。咲かせろ」というメッセージは、そんな私に対する如来からの優しさと情熱に満ちたメッセージだと感じました。
森林公園昭和浄苑支坊 菊地 遊