閻魔大王は私たちの生前の行いをありのままに映し出す鏡を持っているという。その鏡の前ではどのような言い訳や誤魔化しも通用しない。この鏡に向き合うことは恐ろしいが、真実の我が映されているのであれば無視もできない。私の中には我を誤魔化したいという感情と、真実の我に出会いたいという矛盾した感情がある。それではどうすれば真実の我を受けとめられるのか。
親鸞が尊敬している善導大師は「経敎はこれをたとえるに鏡の如し、しばしば読みしばしば尋ねれば智慧を開発す」と述べ、仏の教が私を映し出す鏡であると示している。さらに親鸞は「真実というはすなはちこれ如来(仏)なり。如来はすなはちこれ真実なり。」(『教行信証』信巻)と述べ、如来に出会うことは真実に出会うことだと述べている。如来に出会うとは、虚偽を明らかにする智慧の鏡を如来から賜ることである。
親鸞はこの智慧の鏡によって映し出された姿として、「一切の群生海《すべての者は》、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし」(『教行信証』信巻)と述べ、他にも「虚仮諂偽」という言葉を繰り返し用いている。「虚仮」とは虚しく仮であり、「諂」とは他者の評価にへつらい、おもねる心である。真実に対して誤魔化し 向き合わない心である。それ全体が「偽」の心であり、真実の心なしといわれるのである。
真実である如来に向き合えば、私たちがどれほど真面目な姿を示していても、それは清浄真 実ではなく評価を求める心ではないかと問われてくる。この親鸞の言葉は、如来の鏡に映し出された私の内面の姿をありのままに見せてくるのである。私の内面から、真実の私を問い続ける要求の原動力となる。外部からの評価や問いかけには耳をふさぐ私たちも、自分の心の奥から盛んに起きてくる内面の問いを拒むことはできない。
私は真実の我を求める。真実の我は、外部の評価によって定まるものではなく、如来の鏡に映し出された内面の姿である。いかに正確に私を映し出しているようでも、閻魔大王の鏡には対外的に評価された私がいるだけで、真実の我はいない。私を真に知る者は、私を誰よりも理解するものである。如来の智慧の鏡に映し出される私は、罪業を抱えた孤独な我ではなく、罪業を抱えたままに如来に信ぜられている尊い我である。
見せつけられる私と、受けとめざるを得ない私では大きな隔たりがある。軽憐は外部の評価であり、尊憎は我ど徹底して関わっていくものに対して湧き上がる感情である。私は軽憐という同情のフリではなく、尊憎という深いつながりを求める。
證大寺住職 井上城治