今月は暁烏敏(あけがらすはや)師の言葉を紹介します。師は昭和九年の春彼岸でこのように話されました。
・・・聖人(親鸞)は、自分が賢くてこの道を発見出来たのではない、私は何も知らぬ者である。教えて貰い、習ったより外私の物は無いのだ。全てが貰い物、お与え物である。有り難いというのも、尊いというのも習ったのである。称えることもお礼するということも習ったのだ。全てが貰い物である。これは聖人のおこころであります。(暁烏敏全集・第九巻)
さて、皆様はいのちが授かった時から、生まれるまでの記憶が有りますか。又、親や国なども選ぶことが出来ましたか。現実は気付いたら此処に生を受けていたのでしょう。ですから自らの計らいではなく、全てが貰い物、お与え物ではないでしょうか。とても不思議なことだと思いませんか。
師は昭和十二年八月の「夏期講習会」でもこのように話されています。
・・・大体、自分の考えで生まれて来た娑婆ではない。・・(中略)・・親が考えて生んでくれたと言うが、考えて子を生んだ親はおらん。男の子がおるから、次は女の子を生もう、と自由になりますか。凡夫のはからいではないのである。・・(中略)・・親も分からんで生んだのである。本人も分からんで生まれたのである。そしていつの間にやら、分からんで大きくなったのである。・・(中略)・・この講習会にも、親に背負われて来ておった者が、いまじゃ大学に行っておる。・・(中略)・・そして偉そうなことを言うておる。その代わり、年寄りは一層年を取って、歯が抜け、頭の毛の色が変わったりする。変わって来た位ならまだ結構だ。その内に毛がないようになる。その内世の中におれんようになる。何が何だかさっぱり分からん。すう〜とかわってゆく。(暁烏敏全集・第十巻)
私は先程「いのちが授かった」と言いましたが、この「授かる」という意味には「あたえる・おしえる・つたえる」という意味があります。即ち、いのちが「あたえ」られて、そのいのちが私の番と成った歴史を、良き師に出遇って「おしえて」貰うようにと、人生の学習課題として一緒に授かったいのちではないでしょうか。そしてその内容を後の者に「つたえて」行きなさいという願いが、この「授かる」と言う字には有るように思います。そして授かったいのちは両親や有縁の方に育てて貰い、教えて貰い、又、食材のいのちの恵みも貰い、その結果が今の私に成っています。ですから私の物と言える様な主体は何も無いはずです。ところが私共はそのことに気付かずに、主体が有ることを前提として生きていますので、「俺が、私が」という生き方になるのです。又、この貰うことを「縁」とも言います。全てが縁に因って起こるのです。即ち、全てが縁であり貰い物であることに気付きませんと、何でも自分の思い通りに出来ると錯覚し、謙虚さを失い、自他共に傷つけ合うことにも成りかねません。そういう私共に、「今、色々なご縁を貰って、そのご縁が私共に成っていることに気付け」と、今まさにいのちから問われている時ではないでしょうか。
船橋支坊 加藤 順節