「手のかかる子ほどかわいい」ということを聞くことがある。これはどういうことだろう。
手がかかればかかっただけそれに比例して自然と愛着がわき、かわいくなるという親の情感を表現しているのか。あるいは苦労して手塩にかけて育てた子が成長して自分のもとを離れていった時、当時の苦労を懐かしんで言う言葉なのか。
「手塩にかける」の手塩とは食膳におかれた塩のことだそうだ。それこそ手をかけて自分のさじ加減で味付けし、面倒をみて育ててきたのだから「かわいい」というのもうなずける。反面、思い通りの味にならなければ「こんなはずでは」と思うのと同時に、親にとっては「出来の悪い子ほどかわいい」ということになるのかもしれない。もちろん、手のかかるもかわいいも出来の良し悪しも、みな主観的なことではあるが。
徳川無声氏は「いとしくなる」と言う。いとしくとは、ふびんで、かわいいという意味だ。人間が気の毒でたまらない。可哀そうで、ふびんで。それだけにまた人間というものが恋しく慕わしい。かわいくて仕方ない。ほっておけない。そんな気持ちの言葉であろう。
如来のほんとうに深い底しれぬ御心を曽我量深師は「われわれとともに一緒になってわれわれのためにご苦労くだされる親さまのやるせないお心」と感得せられた。「親さまのやるせないお心」と聞かされると、どうにも胸が詰まる心持ちになる。
仏は、人間をして「煩悩具足の凡夫」とおおせられた。よろこぶべきことをよろこべない。悲しむべきことを悲しめない。捨てるべきことを捨てられない。愚鈍にして何のとりえなき凡夫のわれら人間を「かねてしろしめして」「ことにあわれみたもう」のである。親鸞聖人は、この仏のあわれみこそ親鸞自身への救済の呼びかけと受けとめられ、常々かたじけないという心中のおもいを述べられている。
私たちは、仏にとって自分がいかに手のかかる子か出来の悪い子かを知らない。にもかかわらず、そのような人間をいとしくやるせないお心であわれんでくださっている。人間が安心して迷っていられるのは、この仏のあわれみがあってこそなのかもしれない。
「人間というものが この上もなく気の毒で いとしくなる」
私はこの一言に驚かされた。
仏は巧みな手だてを施して、浄土に生まれることを勧めてくださるという。
人間の何気ない一言に心を動かされるのは、まさに如来が人間を舞台にしてはたらいておられることを、私に示してくださっているのかもしれない。
江戸川本坊 大空