今、携帯電話は幅広い年代で使われ、多数の方が電車のホ−ムやバス停などで携帯と向き合っている光景を目にしますが、皆様はいかがでしょうか。私共は何時でも何処でも、他の者と携帯のメ−ルで繋がれていたいのかもしれません。ですから電波の届かない所には行きたくないのでしょう。このような私共の心理状態を真宗大谷派の宮城顗(みやぎ・しずか)先生は『圏外孤独(けんがい・こどく)』といわれました。そして先生は人間は孤独に弱い存在であるといわれています。ですから私共は他の者から常にかまって貰いたく、常に見守られていたいのです。
さて、ともしび掲示板のことばは、元京都大学教授で発生生物学者の岡田節人氏が、昭和50年代に小学館から出版された季刊誌『創造の世界』の中で『発生生物学のこころ』と題して書かれた記事からのものです。岡田氏はこのようにいわれています。
細胞を取り出して皿にのせて、温度と湿度を管理した部屋に置く。そして取り出してから、一度も覗いてやらないのと、我が子を見るようにせっせと覗いてやるのでは、五日たったら明らかに繁殖の数が違うそうです。確かに我が子を見るように覗いてやる方が育つのが早いと、岡田氏はいわれています。そして同じ研究所の職員も皆同じように感じ取っているそうです。岡田氏は「物は物だけで育つのではありません。我々は食物を食べているから育つ」それだけではないと。それでは何で育つかというと「物に愛が加わって、はじめて物は育つ」と。私は以前この話しを人から聞いたことがあり、何か仏教と通ずるものがあると思いました。岡田氏のいわれた『愛』ということを仏教のことばでいうならば『大悲』です。親鸞聖人は『如来大悲』といわれました。そして如来大悲は皆に平等にはたらきかけています。
親鸞はご和讃に
煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
常にわが身を照らすなり (高僧和讃)
と詠まれました。煩悩に眼がさえぎられて、摂め取ってくださる如来の光を見ることが出来ないけれども、大悲は怠ることなく、常に私の身を照らしてくださっていますと。親鸞は大悲を如来のはたらき『用』としていただいています。
私共はなかなか大悲のはたらきに目覚めることが出来ない。それは煩悩に眼がさえぎられて気付かない。しかし私共は常に誰かにかまって貰いたく、自分が周りから見守られていたいと思っている。大悲を頂いておりながら、気付かず、一生懸命に外に求めているのです。そういう者を『凡夫(ぼんぶ)』といいます。先程携帯電話の話しをしましたが、私共は携帯電話のような受信機がありながら電源が切れているのです。そして切れていることに気付かない。切れているから(如来大悲のはたらき)に気付かないけれど、電源を入れれば気付くことが出来ます。即ち、電源を入れて電波を受信しようとすることを『聞法(もんぽう)』というのです。聞法とは念仏のいわれを聞くことです。聞くといってもただ聞くだけでは他人ごとです。何故私に念仏のいわれが説かれたのかを聞くのです。「私に」というところが聞法の要です。先代住職の遺訓「生涯聞法」の意味を共に確認して行きましょう。
船橋支坊 加藤 順節