私たちは、人間に生まれた事を素直に喜べるだろうか。実際の生活の中で多少の喜びを感じる事はあっても、その反面、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多く、人間に生まれた喜びを実感することは難しいというのが正直なところではないだろうか。
しかし、そのような日常生活にあっても、地獄、餓鬼、畜生をのがれて、人間に生まれた事は、大いなる喜びであるという。なぜなら、「身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもうことかなわずども、地獄の苦しみにはくらぶべからず『横川法語』」と続いている。
これは単に、俺も大したことはないけど、あいつらよりはましだとか、貧乏で苦しいけど、世界中の貧困で苦しむ人たちよりは恵まれているといったような、相対的視点から優越感をもって満足し、自分を慰めているようなことではない。
畜生のようなありかた、餓鬼のような状態、地獄のような苦しみだと感じることはあっても、地獄、餓鬼、畜生そのものを身の事実として体験できない以上は比べようもない。人間はそもそも比べることでは解決できない根元的な苦を抱えているのではないか。
この私たちを苦しめる迷いの心。何の根拠もなく起こる真実でない思いを妄念という。そしてこの妄念は、避けることも、消滅させることも出来ない。なぜならば、「妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外(ほか)に別の心もなきなり『横川法語』」だからである。妄念こそが私そのものであり、この妄念のほかには何もないといっている。
なぜ迷うんだろう、なぜ苦しむんだろうと考えている私自身が実は妄念よりつくられた苦そのものなのである。これは大きな驚きだ。
その妄念のままに念仏申せと勧められる。心を静めて念仏申すとか、清らかな身となって念仏申すのではない。そもそも妄念よりなる我らが、清浄になりようがない。
身のいやしきままに、妄念をいとわず、信心を起こすことのできない心を深くなげきながら、それでも、こころざしを深くして念仏申せといわれる。この日常の出来事に一喜一憂する妄念だらけの身のいやしき我らこそが、弥陀のおさめ取って捨てないという摂取不捨の悲願に出遇うみちしるべとなるからである。
信心あさくとも、この弥陀の本願がはてしなく深きがゆえに、どのような心で申す念仏であっても必ず受けとめてくださる無条件の救済。この無条件の救済があるからこそ、私は、虚心平気にこの世間を生きられるのである。
この本願に出遇う唯一のてがかりが妄念としての人間だといわれるのだ。人間として生まれた深い悲しみ。救われようのない絶望的自覚から、いよいよ大悲大願は煩悩成就のわれらのためであるということがしられて、たのもしくおもわれる。その決定されたところに、「人間に生まるる事をよろこぶべし」と、うなずかれたのであろう。
親鸞聖人は、この他力の悲願に出遇えた感動を和讃に讃歎され、私を励ましてくださる。
無明(むみょう)長夜(じょうや)の燈炬(とうこ)なり
智(ち)眼(げん)くらしとかなしむな
生死(しょうじ)大海(だいかい)の船(せん)筏(ばつ)なり
罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ
『正像末和讃』 證大寺僧侶 大空