無量の寿(いのち)
私は大学時代に、仏教学を専攻していました。その時に多くの経典に出遇いましたが、一番惹かれたのは原始仏教(お釈迦様の言葉に学ぶ仏教)という分野でした。そして、私は『マハーパリニッバーナ スッタンタ』(大般涅槃経)という経典に出遇いました。
この経典の内容は、八十歳になられたお釈迦様が、王舎城から、入滅の地となるクシナガラまでの最後の説法の旅が述べられています。
ここには、八十歳に達したお釈迦様の言葉を、弟子のアーナンダが聞き残した内容なのです。たとえば「アーナンダよ。わたしは老い衰えた。老齢すでに八十におよんだ。たとえば、アーナンダよ、古い車は革紐(かわひも)のたすけによって、やっと動くことができるが、思うに、わたしの身軀(からだ)もまた、革紐のたすけによって、やっと動いているようなものだ」(引用『この人を見よ ブッダ・ゴータマの生涯 ブッダ・ゴータマの弟子達』増谷文雄 著 佼成出版社)と、お釈迦様自身が、ご自分の老体について述べられています。
またお釈迦様が「アーナンダよ、わたしがヴェーサーリを眺めるのもこれが最後になるかもしれない」(引用 同 増谷文雄著)と小高い丘より都を眺めて感慨を深める場面もあります。この経典には、このようお釈迦様のお姿に触れることができるのです。
そして、この経典の内容が、お釈迦様の最後の説法となるのです。
この『マハーパリニッバーナ スッタンタ』の漢訳経典にあたる『遊行経』(『長阿含経』第二卷 大正大蔵経一 第二経)という経典に、このような言葉があります。
捨命住寿(しゃみょうじゅうじゅ)
「命を捨てて寿に住する」
これは、老病死という肉体を抱えているお釈迦様が、ご自身の「いのち」の受け止めの言葉だと思います。私は、この言葉の「命」を肉体の命、「寿」を、自分の命として与えられた背景ではないかと考えるのです。
この「寿」を考えると、私の命が今ここに在る為には、一体何人の方が関わって、与えてくださっているのかといえば、これは量ることが出来ないものであると、受け止めることが出来ます。この量ることの出来ない命の背景を「無量寿」または「無量の寿(いのち)」と呼べるのです。
つまり、私は自分の命を、肉体の命だけのものと思う時に、「自分の命」だからと、好き勝手に生きてしまいがちです。しかし、どうもこの命は、「与えられている」ものであって、自分だけの命ではないのです。そして「与えられている」以上は、この私の命には願いがかけられているのです。この願いを忘れて、生きていくことは、まさに自分の命を私物化して、生きていると同じなのです。
また「無量寿」という寿(いのち)は、決してなくなることが無いのです。永遠につながっていくのです。自分が頂いてきた命が、縁のある誰かの命の背景となり、無量の他の命を生かし続けていくのです。これが無量寿なのです。
だからこそ、いま私が頂いている命を、大切にしなくてはいけないと思えるのです。
改めて、この「無量寿」の姿に目覚めていくことの大切さを、私は『遊行経』の「捨命住寿」(命を捨てて寿に住する)という教えから頂きました。
最後に、この経典では、お釈迦様は自身の肉体の限界を感得した、三か月後に入滅致します。
これで、お釈迦様の説かれた仏教は終わりでしょうか。そうでは無いのです。入滅したとしても、今もなお人々を仏教へと導いているのです。お釈迦様の命が「無量寿」となって今なお、働いているのです。
森林公園昭和浄苑支坊 目﨑 明弘