『どうしようもない』
絶望ではない。
開き直っているわけでもないであろう。
ふと自分の有様に気づかされて口をついた言葉ではないでしょうか。
他者のことを「どうしようもない あなた」とは言えるけれども、自分のこととなると「どうしようもない わたし」とは認められない。
たとえば、失敗したときや間違いを起こしたとき、他者から責められたとき「どうしようもない わたし」ですからと言い訳したり開き直ったりすることはありますが、自分の力で成功したり他者の間違いや失敗を責めるときには「どうしようもない」ということはどこかへいってしまいます。
『身の事実』
「わたしが 歩いている」
ただ今生きて「わたしが 歩いている。」口では、「どうしようもない わたし」とは言えても、絶対に避けることの出来ない、身の事実として「わたしが 歩いている」。
自分のはからいで、何事もどうにでもできるという思いにしばられているわが身、何かにしがみつき執着してしまうこの身を
聖人は御和讃に、
よしあしの文字(もんじ)をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪(ぜんまく)の字(じ)しりがおは
おおそらごとのかたちなり
是非(ぜひ)しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ
このみなり
小慈(しょうじ)小悲(しょうひ)もなけれども
名利(みょうり)に人(にん)師(し)をこのむなり
と詠まれました。
ここに、「どうしようもない わたしが歩いている」という姿が顕かになってくるのではないでしょうか。
谷山 周次