いつも初々しく 小児のように
いま始めて 人生に臨むかのように
好奇心に目を光らせよう
毎田 周一
今月の言葉は毎田(まいだ)周一(しゅういち)氏の言葉です。
毎田氏は明治三十九年に金沢に生まれ、念仏総長、暁(あけ)烏(がらす)敏(はや)氏に師事されて仏教を学び、日本を代表する哲学者、西田(にしだ)幾多郎(きたろう)氏に学ばれました。
冒頭の言葉は、毎田氏の詩集「好奇心」と題された詩集から紹介致しました。
それでは先ず詩の全文を紹介致します。
「好奇心」
これでわかったという顔をすることほど哀れなことはない。命が枯渇(こかつ)しているからだ。いつも初々しく小児のように、いま始めて人生に臨むかのように、好奇心に目を光らせよう。いつも若芽のような人生、それこそは願わしい。とりとめもない、そしてあどけない人生、これで一生貫こう。わかったような顔をして、老人になってしまうことを君よ、一体命が許すか。
私共にとりまして分からないことや、不思議なことが多いですね。また大人と子供ではその捉え方が違っています。
そこで兵庫県豊岡市の本願寺派、東光寺住職、東井(とうい)義雄(よしお)氏(故人)の著書、『母のいのち子のいのち』(探究社)と題された著書の中から、四歳と十歳の男の子の言葉が取り上げていましたので、ご紹介致します。
先ず始めに四歳の男の子の言葉です。
「おもしろいな」
かあちゃん。かあちゃん、女やのに、ぼく男やのに、かあちゃんがぼくをうんだんか、おもしろいな。
次に十歳の男の子の言葉です。
「かお」
ぼくはおかあさんから生れたのに、とうさんににている。とうさんは、よそからきたのに、ぼくはとうさんににている。かあさんの腹の中で、いつのまにとうさんに、にたんだろう。
皆様方はこの二人の子供たちの言葉を、どのように受け取りましたでしょうか。この子供たちは不思議なことして受け取っています。
仏教の教えは、いのちの原点に戻って、真実は何かを知らしていただく教えです。私共の力を超えた大いなるはたらきによって、私共は生かされています。誰も例外なく、「貴方が生きているのではなく、いのちが今、貴方と成って貴方を生かしめています」と、はたらきかけています。このはたらきを「他力」と申します。
そしてこの子供たちの眼こそ、毎田氏の言葉に呼応した内容だと思います。
この子供たちの言葉は、本当に不思議なことです。私共が人間として生まれたことも、男や女に生まれてきたことも、不思議なことではないでしょうか。誰も皆、自分で自分を作って生まれてはおりません。今、ここに存在していることが不思議なことなのです。
しかし大人は分かったような顔をして生きています。しかしながら毎田氏は、「小児のように、いま始めて人生に臨むかのように、好奇心に目を光らせて」いれば、「いつも若芽のような人生」であると言われています。
そして毎田氏は、「わかったような顔をして、老人になってしまうことを、君よ、一体、命が許すか」と言われています。この「命が許すか」と言う言葉は、とても大切な言葉なのです。この度の毎田氏の言葉と、子供たちの言葉をご縁として、このことを共に「仏に教わる生徒」になって聞いて行きませんか。
船橋昭和浄苑支坊 加藤順節