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Home トップページ  >  今月の法語  >  人間がこんなに哀しかったのに 主よ 海があまりに碧いのです遠藤周作 『沈黙』  

2017年01月

人間がこんなに哀しかったのに

主よ

海があまりに碧いのです

遠藤周作 『沈黙』  

掲示板の言葉は長崎にある遠藤周作文学館の石碑に刻まれた言葉だ。ここは徳川家光の時代に弾圧されたキリスト教徒が住まいしていた場所で、遠藤周作の小説『沈黙』の舞台である。人間が弾圧という苦しみのなかにあるのに神はなぜ何も語らずに沈黙を続けるのかということが『沈黙』のテーマとなっている。

小説のクライマックスでは、捕えられた司祭が信者を救うために棄教の証として、鋳られたキリスト像を踏むいわゆる「踏み絵」をする際に、「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」とキリストが沈黙を破って語りかけるシーンが出てくる。この言葉を聞いて私は、親鸞の言葉を集めた『歎異抄』の次の言葉がしみじみと思い出された。それは

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ 

       (『歎異抄』後序)

という言葉だ。五劫思惟の願とは、阿弥陀仏が修行中にすべてのものを救うためにおこした誓願である。この五劫思惟の願の目当ては他でなく、たくさんの業を持つ親鸞を救うためだと親鸞は受け止めている。この親鸞という名乗りに、すべての人の名前が入るのである。

もし私が踏み絵をしなければならない業があるならば、阿弥陀仏はそのような業を持つ私を見捨てず、私とともに救われていこうと本願を起こしているのである。『歎異抄』の作者である唯円は、この言葉につづけて、

いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」という金言に、すこしも違わせおわしまさず。されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが、身の罪悪の深きほどをもしらず、如来の御恩の高きことをも知らずして迷えるを、思い知らせんがためにてそうらいけり。 (『歎異抄』後序)

と述べている。唯円は、先ほど記した親鸞の言葉と善導大師の言葉が少しも違わないと述べている。「わが御身」とは、親鸞自身、善導自身という意味である。親鸞や善導がご自分の身を通して、弥陀の本願が迷いだらけで救われていない現在の私のためにあることを教えてくれている。

縁によってはどのような振る舞いもなしてきた私であるが、その私を孤立させず、ともに悲しみ救われていこうと呼びかける親鸞、そして仏を私は信ぜざるを得ないのである。そして踏み絵をして苦しむものにも、弥陀の大悲は同じようにかけられているのである。

江戸川本坊・井上城治

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