劣等感を持っておるものだから 善人を気取っておる
曽我量深
これは、昭和45年9月4日、曽我量深先生が新潟県三条東別院において行われた講話「宿縁と宿善」の内容がそのまま当時の宗教雑誌『中道』第九十六号に掲載され、その文中に差別表現があったという事件、「『中道』誌差別事件」をうけて、曽我先生の受け止めの談話を筆録した「異なるを嘆く」に書かれていた一文である。
曽我先生は談話の中で『歎異抄』後序の以下の部分を引用されている。
「聖人のつねのおおせには、弥陀の五功思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるを助けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」、それを『歎異抄』の編纂者が受けて、「今また案ずるに善導の、自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常にしづみ常に流転して出離の縁あることなき身と知れ、という金言に少しもたがはせおはしまさず。さればかたじけなくもわが御身にひきかけて、われらが身の罪悪の深きほどをも知らず如来の御恩の高きことをも知らずして迷えるを思ひ知らせんがためにてさふらひけり。まことに如来の御恩ということをば沙汰なくして、われも人も善悪といふことをのみ申しあへり」(歎異抄後序)
そして曽我先生は、次のように仰った。
「かたじけなくもわが御身にひきかけて、そうして、私どもの自覚を促してくだされた。結局、自覚の教えであります。そういうことが今日もまだ明らかになっておらないと思います。私どもも明らかでありません。お粗末であります。私もそんな差別言辞を使ったということは、自分が差別者として機の深信を欠いていることを曝露した、お恥ずかしいことであります。」
私は、これを私自身の生活に対する問いかけであると感じた。
私は消えることが無い劣等感を持っている身であり、それを自覚する教えを聞く機会をいただいている。にもかかわらず「私は聞法してる」と優越感をもって「聞法してない人」をつくりだし蔑む。さらには「聞法してない人」を「聞法する人」にしようなどという善人気取りの優越感にひたっている。その優越感の正体こそが劣等感であると教えられた。
善導大師も、親鸞聖人も、曽我先生も、我が御身にひきかけて、消えることなく繰り返す劣等感の自覚を、「われらが身の罪悪の深きほどをも知らず如来の御恩の高きことをも知らずして迷える」と、私に聞法することを促しているのだ。
江戸川本坊 山岡 恵悟